2012年6月5日火曜日


前々回はテナー・サックスの巨匠Sonny Rollinsを取り上げさせていただきしたが、ロリンズというと、やはり偉大なるインプロヴァイザーとしての姿が思い浮かぶのでは思います。

そのインプロヴァイズの素晴らしさというと、ロリンズ共に脳裏に浮かんでくるのがこの人。

それは、ロリンズと同様、白人ジャズ全盛の1950年代初めに登場し、ロリンズと並びジャズの覇権を黒人に取り戻すに大きな功績を残したトランペッターのClifford Brown。

このクリフォード・ブラウンという人、その活躍は1956年6月、その全盛期にペンシルベニア・ターンパイクでの自動車事故で25歳の若さで他界するまでのわずかな期間でしたが、100年に一人の逸材いわれるほどの華麗なテクニックと、枯れることのない泉の如く湧き出てくる美しく歌心あふれるソロは、没後半世紀を経た今も多くのファンを魅了し続けているだけなく、今も多くのトランぺッターが彼を目標にしている偉大なるプレヤーなのです。

さて、50年代初め黒人達の手によって生まれたハード・バップジャズの黎明期、その音楽を牽引したブラウンとロリンズ、このバップの看板スター二人が同じバンドに在籍していたことがあったのです。

それは1955年の11月、ブラウンが在籍をしていたマックス・ローチとブ� �ウンのクインテットのサックス奏者ハロルド・ランド脱退の後釜として、ロリンズが加入したことによって実現します。
そして二人は、ブラウンの亡くなるまで共に活動を続けていたのでした。

2012年6月2日土曜日


ウィチタフォールズ(英: Wichita Falls)は、アメリカ合衆国テキサス州中部、ウィチタ郡に属する都市であり、同郡の郡庁所在地である。アーチャー郡、クレイ郡およびウィチタ郡の全てに跨るウィチタフォールズ都市圏の主要都市である。2010年国勢調査では人口104,533人となっている[1]。市内にはシェパード空軍基地がある他、「世界最小の摩天楼」がある。姉妹都市としてはドイツ、バイエルン州フュルステンフェルトブルックがある。

18世紀初期にはウィチタフォールズとなった地域にチョクトー族インディアンが住んでいた[2]。ウィチタフォールズは公式には1872年9月27日に生まれた。この日、市の誕生地である7番通りとオハイオ通りの角で町の区画の販売会が開催された[3]。1882年にフォートワース・デンバー鉄道が延伸され、この年に市はウィチタ郡の郡庁所在地になった[2]。市は鉄道駅から西方に成長していった[3]。その地域は現在鉄道駅広場歴史地区と呼ばれており[4][5]、テキサス州歴史史跡に登録されている[6]

1886年の洪水で市名の由来になったウィチタ川の滝が破壊された。その後100年か近く滝が存在しなかったが、市はルーシー公園の川側に人工滝を造った。再生された滝は高さ54フィート (16 m) あり、1分間に3,500ガロン(13,000リットル)の水を循環させている。その光景は州間高速道路44号線の南行きレーンから見ることができる。

市は現在中心街地域の再建と改修のための予算を確保しようとしている[2]。中心街はかつて市の主要ショッピング地域であったが、1953年に作られたパーカースクエアを始め、1960年代と1970年代の同様な開発、さらには1974年にサイクス・センターモールが開業するに及んで、新しいショッピングセンターの創設のためにその地盤を失ってきた。中心街では最後の大型小売店だったシアーズも1990年にサイクス・センターモールに移転した。中心街にある元シアーズの建物は1967年の建設であり、市の1ブロック全てを使い、屋上駐車場もあった。

ウィチタフォールズにはかつて幾つかの石油会社や関連企業、さらに石油精製会社の事務所があった。石油精製会社はコンティネンタル石油(現在のコノコフィリップス)が1952年まで、パンハンドル石油(後のアメリカン・ペトロフィナ)が1965年まで事務所を置いていた。どちらの会社も元の精製設備があった場所をガソリンと石油のターミナル施設として長年使い続けている。

[編集] 1964年竜巻

1964年4月3日午後市の北部と北西部およびシェパード空軍基地を破壊的な竜巻が襲い、死者7人、負傷者100人以上を出し、損害総額はおよそ1,500万ドルに上った(およそ225戸の家屋と事業所が被害を受けた)。この竜巻は全国的にテレビ中継されたものとして最初期の竜巻になった。テレビ局KAUZ-TVがスタジオのカメラを屋外に引き出し、じょうご状の雲が市の北西端に近付く方向に向けて警戒報道したものだった。KFDX-TVも竜巻の生中継を行った。記者達が外に出て竜巻の動きを報告し、その後ニューズディレクターのフレッド・ブルックスと気象予報士のベン・ストリックランドがスタジオに戻って2方向ラジオ通信を行った。「ウィチタフォールズ・タイムズ・レコード・ニューズ」のカメラマンが新聞社の屋上からシェパード空軍基地に� ��づく竜巻の写真を撮った。

[編集] 1979年竜巻

1979年4月10日火曜日の午後遅く、ウィチタフォールズ市の人口が多い南部を藤田スケール5の竜巻が襲った。地元ではこの日を「恐怖の火曜日」と呼んでいる。この竜巻は周辺地域で起こった30個の竜巻の一部だった。大変な気象条件が差し迫っているという予報が1時間近く前に出ていたにも拘わらず、45人が死亡(25人は自動車に乗っていた)、1800人が負傷した。これは多くの人が仕事場から来るまで家に帰っている時間帯だったからだった。この竜巻で2万人が家を失くし、被害総額は4億ドルとなって、1999年にムーア・オクラホマシティ竜巻が起こるまでは1つの竜巻による被害額として全米最高額となっていた[7]

[編集] 地理と気候

ウィチタフォールズは北緯33度53分49秒 西経98度30分54秒 / 北緯33.89694度 西経98.515度 / 33.89694; -98.515に位置する[8]。オクラホマ州との州境から南に15マイル (24 km)、フォートワース市からは北西に115マイル (184 km)、オクラホマシティからは南西に140マイル (224 km) の位置にある。アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、市域全面積は70.71平方マイル (183.1 km2)、このうち陸地は70.69平方マイル (183.0 km2)、水域は0.02平方マイル (0.05 km2)で水域率は0.03%である[9]

2012年6月1日金曜日


長井大輔です。今日は6月14日です。

「民主主義」論文の第6回です。

デモクラシーと自由主義の対立関係を、19世紀のドイツ史から見ていきます。

【デモクラシーと19世紀のドイツ】

 

 フランス革命によって、古代の政治用語だったデモクラシーが近代に蘇(よみがえ)り、建国直後のUSAでは、ジェファスン・ジャクスン系の自営農民・職人を基礎とする勢力が、自分たちの団体や政党に「デモクラティック」を冠するようになった。これで、アメリカ革命とフランス革命が、近代デモクラシーの出発点であることが分かった。

 

 それでは、つぎに19世紀のドイツの歴史を見てみよう。ナポレオン戦争終結後、ヨーロッパ大陸ではロマノフ朝、ハープスブルク朝が主導して諸君主制、諸身分制、天賦王権(divine right)、勢力均衡を基礎とする諸王朝間体制を構築した。この体制が封じ込めるべき対象は、ナポレオンのヨーロッパ統一によって、民衆に広められたフランス革命の精神である。フランス革命の精神から、のちのリベラリズム、ナショナリズムが生まれる。

 それらを摘発するために、オーストリアの首相クレメンス・フォン・メッテルニヒは秘密警察と検閲制度と密告社会をつくりあげた。ヴィーン体制(ヴィーナ・ズュステーム)という時代は、のちの社会主義国家のKGB、シュタージ、公安部ばりの警察力を使って、言論の自由や通信の秘密を徹底的に取締まることにより、成り立った時代である。のちの憲法制定の際に、「(政府によって制限されない)言論の自由」や「政府による検閲の禁止」が明記されるのは、このためである。

 ナポレオンやフランスに共鳴した人々は危険思想の持ち主として、秘密警察の厳重な監視下に置かれた。恐怖だけでは人々は支配できないから、メッテルニヒは君主制の正統性の宣伝も忘れなかった。しかし、それでもヴィーン体制は長い革命と戦争の時代を終結させ、ヨーロッパに平和をもたらした。ヴィーン体制を構築した諸王朝にしてみれば、フランス革命の精神を掲(かか)げる政治活動は、ヨーロッパ(諸王朝)に再び破壊と混沌(こんとん)をもたらすナポレオンを支持する危険思想と映ったのだろう。

 ヴィーン体制発足直後にははやくも、自由と統一を求める学生運動や、ドイツ各国でも憲法制定と国民議会招集の動きがあったが、メッテルニヒは徹底的に取締(とりしま)り、逆にヴィーン体制の強化に成功した。「静穏(せいおん)の20年代」を経て、1830年代に入ると、リベラリズムは理論武装の段階に入る。そこでは、フランス革命におけるジャコバン独裁によって、恐怖政治の代名詞となったデモクラシーを避けて、君主と国民議会の協力による「立憲君主制」が唱えられた。