『民主主義』(6) 「デモクラシー」vs.「自由主義」|Generalstab
長井大輔です。今日は6月14日です。
「民主主義」論文の第6回です。
デモクラシーと自由主義の対立関係を、19世紀のドイツ史から見ていきます。
【デモクラシーと19世紀のドイツ】
フランス革命によって、古代の政治用語だったデモクラシーが近代に蘇(よみがえ)り、建国直後のUSAでは、ジェファスン・ジャクスン系の自営農民・職人を基礎とする勢力が、自分たちの団体や政党に「デモクラティック」を冠するようになった。これで、アメリカ革命とフランス革命が、近代デモクラシーの出発点であることが分かった。
それでは、つぎに19世紀のドイツの歴史を見てみよう。ナポレオン戦争終結後、ヨーロッパ大陸ではロマノフ朝、ハープスブルク朝が主導して諸君主制、諸身分制、天賦王権(divine right)、勢力均衡を基礎とする諸王朝間体制を構築した。この体制が封じ込めるべき対象は、ナポレオンのヨーロッパ統一によって、民衆に広められたフランス革命の精神である。フランス革命の精神から、のちのリベラリズム、ナショナリズムが生まれる。
それらを摘発するために、オーストリアの首相クレメンス・フォン・メッテルニヒは秘密警察と検閲制度と密告社会をつくりあげた。ヴィーン体制(ヴィーナ・ズュステーム)という時代は、のちの社会主義国家のKGB、シュタージ、公安部ばりの警察力を使って、言論の自由や通信の秘密を徹底的に取締まることにより、成り立った時代である。のちの憲法制定の際に、「(政府によって制限されない)言論の自由」や「政府による検閲の禁止」が明記されるのは、このためである。
ナポレオンやフランスに共鳴した人々は危険思想の持ち主として、秘密警察の厳重な監視下に置かれた。恐怖だけでは人々は支配できないから、メッテルニヒは君主制の正統性の宣伝も忘れなかった。しかし、それでもヴィーン体制は長い革命と戦争の時代を終結させ、ヨーロッパに平和をもたらした。ヴィーン体制を構築した諸王朝にしてみれば、フランス革命の精神を掲(かか)げる政治活動は、ヨーロッパ(諸王朝)に再び破壊と混沌(こんとん)をもたらすナポレオンを支持する危険思想と映ったのだろう。
ヴィーン体制発足直後にははやくも、自由と統一を求める学生運動や、ドイツ各国でも憲法制定と国民議会招集の動きがあったが、メッテルニヒは徹底的に取締(とりしま)り、逆にヴィーン体制の強化に成功した。「静穏(せいおん)の20年代」を経て、1830年代に入ると、リベラリズムは理論武装の段階に入る。そこでは、フランス革命におけるジャコバン独裁によって、恐怖政治の代名詞となったデモクラシーを避けて、君主と国民議会の協力による「立憲君主制」が唱えられた。
ここで、アメリカ独立戦争が行われましたか?
(引用開始)
しかし、フランス革命期のジャコバン独裁の苦い経験をくぐりぬけ、さらに世紀初頭の苦い経験をくぐりぬけ、さらに世紀初頭の政府主導型の上からの改革の実績を踏まえていたために、一八三〇、四〇年代の多くの自由主義者たちは、人民主権論をしりぞけて君主制を受容し、君主との協調のもとで議会が国政を運営することを好ましいと考えた。
彼らは憲法を作成することでさえ君主と国民代表としての立憲議会とが「協定」によって制定するという協定理論を採用していた。つまり人民主権は蒙昧な大衆支配と独裁におちいりがちであり、これを防止するためには国家の柱石としての君主が必要であるとみなす意見が強かったのである。
(成瀬治ほか『世界歴史大系ドイツ史2』P248~249)
(引用終了)
リベラリズムとは、言論・出版・集会・結社の自由、所有権の不可侵、法律の前での平等など、政府権力からの自由をもとめ、政治制度的には制限選挙制や立憲君主制(制限君主制)をとる立場である。リベラーレン(自由主義者)とは、基本的にブルジョワジー=市民階級のことだった。1840年代になると、リベラリズムの分派として、デモクラシーや共和主義が登場する。
デモクラーテン(民主主義者)の主力は、プチブル(小市民階級)や労働者たちだった。デモクラーテンは同時にレプブリカーナー(共和主義者)であり、ドイツに林立する諸君主制・諸王朝に反対であった。彼らはドイツに数十ある諸君主制こそが、ドイツ統一の最大の障碍(しょうがい)と考え、すべてのドイツ語話者を国民とする全ドイツの統一をめざしていた。
普遍選挙による国民議会と中央集権的な政府をもつ大ドイツ共和国を建設するためには、ハープスブルク家とホーエンツォレルン家(プロイセン王家)をはじめとするドイツの諸王家を革命によって一掃しなければならない。ドイツの諸君主制はナショナリズムや「大ドイツ統一」を敵視しており、これが実現されれば、たとえばドイツ人、ハンガリー人(マジャル人)、ベーメン人(チェコ人)などさまざまな種族を領民とするハープスブルク朝は、バラバラに解体されることが必至だった。
君主制にとって重要なのは、神聖なる世襲の王位と財産=領地・領民、それと諸身分制であり、領民が何人で何語を話そうが問題なかった。「国民」など素人の夢見る理想論、机上の空論に過ぎない、ばかばかしい話だった。そもそも当時、「ドイツ」という国はなかった。それどころか、歴史上「ドイツ」と名のった国もなかった。ドイツという国は、1871年にはじめてできたのだ。それまでは、ドイツとは国名ではなく地域名だった。
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そもそもナショナリズムが生まれるまで、同じ言葉を話す者たち同士で一つの国をつくるという発想がなかった。よその領主の土地からやってきた者(いまでいえば外国人)が、王として招かれたり、大臣として雇われることはよくあった。イングランドのウィリアム3世(オランイェのウィレム3世)はネーデルラント(オランダ)出身だし、ジョージ1世はハノーファ(ドイツ)出身である。ルイ14世の首相をつとめたジュール・マザランはイタリア出身だし、オーストリアの首相となったメッテルニヒはラインラント(フランスとドイツの境目、ライン川沿いの地域)出身だった。
当時のヨーロッパではラテン語、フランス語が共通語だったから言葉の違いは問題にならなかった。君主制においては、出身地ではなく、身分が問題だった。フランスは歴史上初めて誕生した「国民国家」である。簡単に言うと、フランス革命はブルボン家とその家臣団の家産を「国家」とし、彼らの領民を「国民」とした。領地によって文化も異なるし、領民の話す言葉も違ったので、「フランス文化」と「フランス語」を新しくつくって、「国民」をつくった。
国民(ナシオン)がはじめて生まれたのはフランスだが、ナショナリズムをつくったのはドイツ人だ。ドイツをフランスのように国民国家化しようとした時、はじめてナショナリズムが生まれた。国民国家になったフランスと諸君主制が林立するドイツの違いは、日本におけるサッカー(フットボール)界と野球界との違いのようなものだ。
日本のサッカー界にはJFA(日本サッカー協会)があり、JFAが日本のサッカー界を管理し、Jリーグを頂点にピラミッド型に組織が整備されている。対して野球界は、日本の野球界を統一して管理する組織はない。プロ野球のNPB(日本プロ野球機構)、高野連、大学野球、社会人野球がそれぞればらばらに活動している。国際的にもサッカー界には全世界のFA(football association、サッカー協会)が加盟し、サッカーの国際試合を運営するFIFA(国際サッカー協会)があるが、野球界にはない。
サッカー界が中央集権的なのに対し、野球界は各国・各団体がそれぞれの縄張りで勝手にやってる。日本の野球界は、新聞社の利権だ。プロは読売で、高校野球は朝日・毎日だ。日本の野球界でも、サッカー界を見習って、各団体の垣根(かきね)を取り払って、整然とした中央集権的な組織をつくろうという意見もあるが、遅々として進まない。ここ最近、プロアマの交流が解禁され、両者の練習や試合がはじまったばかりだ。
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19世紀のドイツでは、フランス型のドイツ国民の創出をめざすナショナリズム運動は、諸王朝同盟にまったく抑えこまれ、ドイツ統一は夢のまた夢であった。そんなドイツの国民運動にとって冷や飯喰いの時期を打ち破ったのが、1848年革命だった。2月革命でオルレアン朝フランスの「市民王」ルイ・フィリップがUKに亡命した。革命はヨーロッパ各地に飛び火した。
ヴィーンでも革命が勃発し、ハープスブルク家はメッテルニヒを切り捨てた。フェルディナント1世は欽定(きんてい)憲法を発布したが民衆は反発し、カイザーと宮廷はヴィーンから逃亡した。ベルリンでも革命が起こったが、「玉座のロマンティシスト」フリードリヒ・ヴィルヘルム4世はできるだけ、「愛するベルリナー(ベルリン住民)」の意向を尊重する方向で対処した。
フランクフルトでは国民議会が開かれ、ドイツ各地のリベラーレンやデモクラーテンが集結していた。彼らはハープスブルク朝を解体することによって、大ドイツ、ハンガリー、イタリア、ポーランドを独立させ、諸王朝間体制を国民国家体制へと再編することを考えていた。しかし、当初の予測に反して、ハープスブルク朝は崩壊せず、各地の叛乱(はんらん)を鎮圧して、領内の再統一に動き始めた。それに対して、軍隊と政府という具体的な権力基盤をもたない国民議会はなす術(すべ)がなかった。
そこで、国民議会はハープスブルク朝崩壊による大ドイツ統一をあきらめ、プロイセン中心の小ドイツ統一で我慢し、フリードリヒ・ヴィルヘルム4世にドイツ・カイザーの帝冠を奉呈(ほうてい)したが、拒否され、以後活動停止に陥(おちい)った。フリードリヒ・ヴィルヘルム4世は革命派による帝冠ではなく、ドイツ諸君主によるカイザー推戴(すいたい)を望んだのである。この過程の中で、「大ドイツ共和国」をめざすデモクラーテンは国民会議から退席し、「小ドイツ立憲君主制」へと妥協したリベラーレンと訣別(けつべつ)していた。
急進派が実権を握っていたヴィーンでは軍が革命を鎮圧し、全オーストリア領の統一を確認して大ドイツを否定、「青年カイザー」フランツ・ヨーゼフを即位させ、新体制を発足させた。プロイセンでも革命の嵐は過ぎ去り、国王主導でリベラーレンの意向を受け入れた憲法が制定された。ヨーロッパ革命は諸王朝側の勝利で終わった。君主制側では、ブルジョワを体制側に引き込んで、協力の見返りに、憲法と議会を与えた。これが立憲君主制だ。
ドイツでは、徹頭徹尾、生粋(きっすい)のプロイセン人であるオットー・フォン・ビスマルクが、プロイセンを中核に、中小の諸君主領と自由都市をつぎはぎして、ドイツ帝国(Deutsches Reich)をつくる。彼が、首相就任当初から「鉄血政策」でドイツ統一をめざしていたというのは、「伝説」、「神話」である。ビスマルクにとっては、「プロイセン王国」がすべてであった。彼の目標は、プロイセンを中心とする「北ドイツ連邦(Norddeutscher Bund)」であった。
彼はカトリックで、大ドイツ統一を求めるデモクラーテンの多い、バイエルン(バイアン)や南西ドイツを異質視していたし、かたやバイエルンや南西ドイツの側も、粗野(そや)で軍国体質でユンカーの国であるプロイセンを嫌っていた。しかし、ビスマルクはリアリストだった。彼にとって、ドイツ同盟軍とナポレオン3世との戦争(独仏戦争、1870-71)は想定外のものだったが、ドイツ全土でナショナリズムが盛り上がったとき、それに逆らわない形でドイツ統一を達成した。
ドイツ帝国では、プロイセン国王がドイツ・カイザーとなり(ちなみにヴィルヘルム1世も生粋のプロイセン人で、彼にとってはドイツ帝位よりもプロイセン王位の方が重要だった)、各地の君主たちもそのまま残った。これを指して日本人は、明治維新で廃藩置県をやった日本に比べて、王様たちがそのまま残ったドイツ統一ははなはだ不徹底だと評する。徳川家や毛利家など大名たちがそのまま、残って統治をつづけるようなものだと。
しかし真実は、ビスマルクはわざと不徹底な統一にしたのだ。なぜか。それはプロイセン王国の独立を維持するためだ。何度も言うが、彼にとってはプロイセンがすべてであった。しかし、彼はリアリストでもあったので、ドイツ統一をもとめる輿論(よろん)に逆らわなかった。彼は、勢いのあるドイツ国民運動を、政治的な盟友に選び、ドイツ統一の中でプロイセンの利益を最大化する道を選んだ。その結果、できあがったのが、つぎはぎ国家、ドイツ帝国であった。
イタリアでも、サヴォイア朝サルデーニャによってイタリア半島が統一されるが、当初サルデーニャがめざしていたのは「北イタリア王国」である。ジュゼッペ・ガリバルディからシチリア・南イタリアを「献上」されて、なりゆきで「イタリア王国」が統一されたにすぎない。ドイツ統一なりイタリア統一という構想をもっていたのは一部の国民運動の活動家だけで、実際にそれを達成したビスマルクや(カミッロ・)カヴールら現実政治家には、そんな大それた構想はもともとなかった。(つづく)
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