AIDS TO SCOUTMASTERSHIP
AIDS TO SCOUTMASTERSHIP
隊長の手びき
ベーデン・パウエル著
(国際版)
ボーイスカウト日本連盟訳
目次
第T部
少年をいかに訓練するか
隊長
その資格
その任務
スカウト運動に対する忠誠
隊長の報酬
少年
その特質
環境と誘惑
隊の本拠とキャンプ
少年たちをつかむには
スカウティング
スカウティングは簡単である
スカウティングの目的
スカウト訓練の四部門
スカウティングの諸活動
スカウト精神
班制
班長会議―名誉会議
班制の価値
スカウトのユニフォーム
隊長の担任
第U部
社会人性を育てるスカウティング
T. 人格(性格)
人格(性格)の重要性
なぜ一隊32名を超えてはならぬか
騎士道とフェア・プレイ
紀律訓練
名誉の感覚
自立心
人生を楽しむこと
識見の発展―敬虔
自尊
忠誠
U. 健康と力
健康の重要性
強健であれ!
編成されたゲーム
体操
教練
戸外
キャンプ生活
水泳・漕艇・信号
個人衛生
清潔
食物
節制
制慾
喫煙しないこと
身体不自由児スカウト
V. 工作と熟練
工作と道楽
まず開拓作業
技能章
知識
自己表現
道楽仕事から始まって一生の仕事へ
隊長の担任
職業
W. 他人への奉仕
自分本位
自分本位を根絶して善行の習慣を
地域社会への奉仕
将来にあがる成果
総括のことば
付録
日本語版刊行について
ボーイスカウトの指導者、特に隊長の必読すべき本は他にもあるが、本書はそれらの中でも第一に読まねばならない本である。
著者(B−P)のことばや、英国のロウォーラン総長の序文、そしてウイルソン先生の国際版に対する解明的な緒音によって読者は、この本の来歴を読みとれるだろうと思うが、私は更に、それに加筆する義務を感じる。それは、わが日本に於ける本書の来歴についての説明である。
原書の初版は、1920年(大正9年)に出された。この年こそは第1回ジャンボリ―がロンドンで行なわれその場でB−Pが世界のチーフ・スカウトに推され、そして国際事務局が誕生した年であるから、その出版には大きな足跡が響く。1922年(大正11年)4月13日、元の日本連盟が結成され、1924年(大正13年)デンマークでの第2回世界ジャンボり−に初めて日本が正式に参加した時に、およそスカウティングの基本になるような原書は沢山日本に持ち帰られたが、本書の原典もその中にあったこと勿論である。それは四六判で127ページある、いわゆる原典(旧版)である。
翌1925年(大正14年)この派遣団で待って帰った者のなかの有志者が、外務省のある人々の協力を得て翻訳し、旧日本連盟から「少年団指導者教範」と銘うって刊行きれたのである。然しこれは残念ながら絶版になり、秘蔵していた人の大多数は空襲で焼いたりして今日では稀にしか発見されないのである。
然し、大切なスカウトの文献が戦火で焼かれたのは独り日本だけのことではなかった。ヨーロッパ諸国においても御同様であった。そこで大戦後、アメリカのスカウト本部の手によって再刊が始められた。本書(国際版)もそれによって刊行された本の中の一部である。
この国際友愛版は、A5判で総ページ71頁である。
この国際友愛版を原典と比較すると56頁も薄いし目次を一覧すると内容の組み替えに気づく。そこで、これは原典のエッセンスだけをとった抄本ではあるまいか、という錯覚が生じる。然し、ウイルソン先生の諸音を読むと、1920年の初版はその後B―Pとウイルソン先生の手によって何回改作され、次いで米国の、ヒルコート氏も一枚加って改訂されたことがわかる。即ち、最初は英国だけの教育状態を対象として筆をとったのだが、その後、英国の教育界も年と共に改善されたため原典のある部分は削らねばならなくなったこと、一方、スカウティングが他の国々にゆき渡って国際的なスケールに発展してきたので、それに即応すべく書直ししたり、アレンジする必要を生じたこと、などの理由で本書の内容が成長して、文字通り国際版になったのだと知る次第である。
戦後、再建した日本連盟は、焼けたり、絶版になったり、改版になったりした基本的なスカウト文献を、再刊しなければならないのだが、これは相当な大事業で中々急速にはできない。そこでとりあえず、"Aids to Scoutmastership"の、この国際版を邦訳することにした。一応できたが、これを単行本として刊行するだけの余裕がなかった。そこで日連発行の雑誌「スカウター」(後、スカウティングと改題)の巻末にこれを何回かに分けて載せることにした。即ち、1954年の2月号、4月号、6月号、10月号、1955年1月号(これは1954年の12月号を兼ねた号)そして6月号―以上6回に分けて載せ、その部分だけを読者が取り集めて1冊に綴れるようにページをつけたのである。この企面と邦訳に対しては当時の指導局の関忠志氏に負うところすこぶる大であったことを記しておきたい。
今年すなわち1957年(昭和32年)、我々は創始者であり本書の著者であるB−Pの生誕100年、且つはこの運動発足50年の記念すべき年を迎えるにあたって、祝賀並びに感謝の意味で、失われたスカウト文献の基本的なものを再刊するという決意をし、先ずその第一着手として、先に分載されたこの、"Aids to Scoutmastership"の邦訳を単行本として刊行することとしたのである。邦語版は「隊長の手びき」と名づけられた。
以上が日本に於ける、この本の成長過程である。
読者諸君、この本は誠にささやかな一冊の本ではあるが、今より37年前にB−Pによって生まれて以来、各国の沢山の同志の、有形無形の協力と育成によって、この本そのものが、スカウティングの成長と併行して成長して今、読者各位の手に渡されたものである。
この意味でも文字通り国際版なのである。私は、この本の成長とほば同じ年月を、この本と共に歩み来ったスカウトの一人として、感慨まことに深いものがある。
今回、名前は「指導者教範」ではなくて、「隊長の手引」という名で再刊されたが、私は再刊にあたって、訳者と、刊行に特別な御世話を頂いた久留島理事長、および一ツ橋書房に対し深甚なる謝意を表して筆をおきたい。 彌栄
昭和32年3月
ボーイスカウト日本連盟
総長 三 島 通 陽
序 文
"Aids to Scoutmastership"(隊長の手引)、簡単な表題、しかしこの本は何と驚くばかりに完全なことか。国際事務局で我々は、スカウターが足りないとか、我々が解決しようとするその他の問題とか、今日の情勢から生まれてくる各種の新しい問題を受けとる。
そのどれもが新しい問題ではなく、この本を幾度も読み返してみると、ちょうど我々が探していた答が出ている。我々はあまりにも文献や指導書を持ちすている、私はよくこう思う!この本と"Scouting for Boys"の中に我々の必要なものは何でもある。その他のことは、B―Pの青葉で言えば、"隊長の常識に任せば"よろしい。
この本を読み、また読み返して頂きたい。それが、諸君の経験がどんなに長かろうと、今までどれだけ成功していようと、諸君が前よりよい仕事をするための助けになると私は確信する。
(英国)総 長
ロウォーラン
著 者 の こ と ば
この本の長さを気にしないで頂きたい。
スカウティングは深遠難解な科学ではなく、間違いなく理解すればむしろ楽しいゲ―ムなのである。同時にこれは教育であり、Mercy―あわれみ−と同じようにそれを受けるものとひとしく与えるものにも役立つことが多い。(訳者註・Mercyうんぬんの言葉は、16世紀イギリスの劇作家シェイクスピアの"べニスの商人"の中で、裁判官が述べる有名なせりふの引用)
"スカウティング"という言葉は、ゲームによって少年あるいは少女のために公民教育をする一つの方式、という意味をもつようになっている。
少女は大切な人たちである、何故なら、一国の母親たちがよい公民であり、品性ある婦人であれば、その息子たちをもそういう点で欠陥がないように注意するであろうから。現在の状態では、スカウト訓練は男女両方に必要であるから、それをボーイスカウト運動、ガールガイド運動として両方に与えている。根本の主旨は大方同じである。違うのは細部においてだけである。
A・S・M・ハッチンスンはその小説の中の一つに、青少年が必要とするものは背景であるとほのめかしている。さて我々は、スカウティングとガイディングにおいて彼らに一つの背景を与えているが、それは神がすべての者のために備えて下さった背景――野外と幸福と人の役に立つ、これである。
実際、隊長は少年をこの背景へと案内して行くうらに、その同じ幸福さと人に役立つことの分け前にはからずも自分もあずかるのである。隊長はこの仕事をはじめた時に恐らく予期したよりも、もっと大きな仕事をしていることに気がつくが、それは彼が人間と神に対して生命をかけるに値する奉仕をしていることがわかるからである。
諸君がこの本の中に、知識を完ぺきにするような一揃いのはっきりした手段を見出したいと思うなら、これは案外な本だと思うだろう。
私はただ、我々に成功するとわかった方法とその理由を示唆として述べようというのである。
ひとはその目的を理解すると一層専心して示唆の数々を実行するものである。それで、この本の大部分はいろいろの手段の詳細というよりも、その手段のための目的として取り上げてほしい。これら手段は読む人の器用さに応じ、またその人の働いている地方の事情に応じて充足されてよいのである。
国際語版に対する緒言
第一次世界大戦の少し前、ベーデン・パウエルは隊長の養成講習を計画し指導した。そのため彼はスカウティングによる少年訓練に関して、一連の覚え書を書いた。戦後、それをまとめて出版したらという提案がなされた。彼は、その後の経験に照らして校訂し、――いろいろの面において戦争はスカウト訓練にとって一つの試金石であったので1920年に"Aids to Scoutmastership"が出版された。
その同じ年、ロンドンで最初の世界ジャンボリーが開かれ、スカウトの世界団体(国際事務局)が発足し促進されることになった。そのジャンボリーでベーデン・パウエルは、彼が授けられた他の何物よりも尊重した栄誉の称号"世界の総長"という名をもって歓呼されたのであった。
健忘症のナイトクラブ
その後十年して"Aids to Scoutmastership"の改訂版が発行された。この改訂版を出す手伝いをすることができたのは私の特別の喜びであった。"ギルウエル・パークのキャンプ・チーフ"として、隊長訓練の実際に照らしてこの本に書かれている示唆や教示を実行したりするのは、私の義務でもあり喜びでもあったから、総長は私に協力を依頼されたのである。総長とギルウエル・パークとの間に近しい連環がまた一つ加えられたのであった。スカウト運動が成年に達した1929年の年の第三回世界ジャンボリーにおいて、大英帝国の爵位が総長に授けられた。ボーイスカウト国際理事会のすすめにより、「ギルウェルのベーデン・パウエル卿」と称号することにしたが、それはギルウェルパークがスカウトの国際訓練場として認められており、また国際理事会の人々と同じく総長自身も、スカウトの世界団体が王室に認められたということを強調したいと考えたからである。
この本の両方の版の主要部分は、公民を作り上げる資質を解明した、総長自身の手になる図表と、それを教えるスカウティングの実際とにもとづいている。これは彼の習慣であるが、ベーデン・パウェルはできる限りわかりやすいものにしようと、自分の草稿を検討し直し続けた。この絶えざる検討の結果の一つはスカウトの訓練計面を解明した非常に簡素化された図表で、これを彼は自叙伝"Lessons from the 'Varsity of Life"(人生大学から学んだもの)のなかに入れている。
"Aids to Scoutmastership"の国際版は、この最後の解明に従ったものである。前に出た版の内容をそれに準じながらも少しばかり配列し直し、多少のあき間をベーデン・パウエルの他の書きものから取って補充した。国内だけのものから世界の用途にまで引上げる――というこの新しい版の目的を考え、イギリスの教育活動に関して、1920年代には行なわれたが今はもはや話題にも上らず適切でもなくなった参考文献は取り除いた。この本の編集にはアメリカ連盟の出版編集部職員ウィリアム・ヒルコートが当った。ヒルコートはそのスカウティングの経歴においてB−Pの足跡に黙々として誇りをもって従って来た人である。
この国際版の出版を許し励まして下きったレディー・ベーデンパウエルには特に感謝の言葉を捧げるべきである。
私自身が固く信ずるところは、世界各国におけるスカウティングは、大人の監督をできる限り少なくして、少年が自分自身を伸ばして行けるようにしてやる"ゲームとしてのスカウティングの単純な本来の意義に立ち返るべきだということである。その少年の指導者という高い地位をみずから選んだ我々が、もし日常の生活においても、スカウト活動においても"少年を忘れるな"という方向に向って進むならば、我々は一層よい働きをし、一層よい結果や築くことができるだろう。
"Aids to Scoutmastership"のこの版は、この信念をもって作られた。これが創始者が描いたままの真のスカウティング精神を生かし続けるために役立つようにと願っている。またこれが我々の目的と方法を理解するため、全世界の隊長たらへの助けとなるように と望むものである。
ボーイ.スカウト国際事務局
名 誉 事 務 局 長
J.S.ウイルソン
第T部
少年をいかに訓練するか
隊 長
少 年
スカウティング
隊長は兄の心を持って少年をみちびく
隊 長
隊長になろうとする人たちに気安く感じてもらうための前おきの言葉として、よい隊長となるには"驚嘆すべきクライトン"――物しり博士――でなければならないという世間一般の間違った考え方に私は反対しておきたい。そんな必要は全然ない。(訳者註・クライトンはジェームズ・クライトン、1560年に生まれ85年に歿するまでスコットランドの物しり天才といわれた人。驚嘆すべきクライトンと通称された)。
ただボーイ・マン(童心の大人)でありさえすればよいのだ、ということは―――
(1)自分の中に少年の心を持たなければならない。その第一歩として少年たちと一緒になれなければならない。
(2)年齢層の違いに従って少年たちの必要とするもの、目ざすもの、希望するものが何であるかを理解しなければならない。
(3)少年たちを、集団としてではなく、個々の人間として取扱わなければならない。
(4)その上で、最良の成果を得るために、個々の少年たちの間に団結の精神を育ててやらなければならない。
第一の点についていうと、隊長は学校の教師でも、司令官でもなく、牧師や講師でもない。必要なことといえば、野外活動を楽しんだり、少年たちの野望の中に自分もとけこんだり、また信号や図画であろうと自然研究や開拓探検であろうと、少年たちが希望するものを、教えてやってくれる人たちを見つけて来たりする、こういう能力がありさえすればよいのである。
少年たちに対して兄の立場に立たなければならない、ということは物事を少年の見方で見ること、そして正しい方向へみちびき、案内し、それに熱意をもたせることである。肉親の兄のように、隊長は家族の(スカウト隊の)伝統をわきまえ、そのためには多分に厳格さが必要だとしても、その伝統が守られるようにしなければならない。これだけでよいのである。スカウト運動は愉快な兄弟仲間であって、スカウティングというゲームによって他の人々のために尽くし、利己心が頭をもたげるのを抑えてゆくのだから一層愉快である。
第二の点については、いろいろの本が出ていて青年期の各時期に亘っているからそれに任せる。
第三は隊長の仕事――実に面白い仕事であるが――これが少年一人一人について彼の中にあるものを見出し、その良い所を捉えて悪い所がなくなるまで伸ばしてやることである。最も悪い人間といわれる者の中にも5パーセントは良い所がある。それを見つけ出し、それを8パーセントにも90パーセントにも大きくしてやることこそ、スカウティングの妙味である。これは少年の心に何かを教えこむことではなく、その心の中から描き出してやること、すなわち教育である
第四。スカウト訓練において、班あるいは仲間を組むやり方は各個人の得た訓練を一体のものとして表わすことになるもので、それは少年が教えられていたものすべてを実行に移させることなのである。
班制はまた、それが正しく運用されれば、人間訓練という大きな価値を持つものである。それは少年各自が自分の班のために何らか一隊員としての責任を持っているのだということを、一人一人にわからせるようにする。それはまた、各班がその隊に対して一定の責任を持っていることをわからせることになるのである。この班制によって隊長はスカウトたちの道徳上の見方についての自分の教えや考えを隊員に伝達することができる。これによって、スカウトたちは自分たちが隊のすることについて重要な発言権を持つことを徐々に覚えていく。班制こそ隊を成すものであり、それならば、すべてスカウティングは一つの真の共同制作をするものだといえるのである。
隊長の任務
少年を訓練することの成功不成功は、隊長本人がみずから示す手本によりことが多い。少年の兄になるのと同じくその英雄になることも容易である。我々は、大人になってしまうと、少年がどんなに大きな英雄崇拝の心を持つものかを忘れやすい。
少年たちにとって一個の英雄である隊長は、彼らの成長に対して強力なテコを持っているけれど、同時に大きな責任が自分にかかっているのである。少年たちは、それが美徳であろうと、悪徳であろうと、隊長のごく些細な特徴をすばやく見つける。隊長のくせは少年たちのくせとなり、彼が示す礼儀正しさ、いら立ち、明るい愉快さあるいは気短なシカメッ面や進んでする自己鍛錬、時として犯す道徳的なあやまち――これをみな少年たちは気づくばかりでなく取り入れるのである。
それ故、少年たちにスカウトのおきてや、おきてに含まれるすべてのことを実行させるには、隊長自身がおきてにのべられてあることを自分の生活のあらゆる細かい点にも注意深く実行しなければならない。ほとんど一言の教える言葉も要さずして少年たちは隊長にならうであろう。
隊長の仕事はゴルフか、大鎌刈りか、蚊ばり釣のようなものである。もし"力を入れて"うまく行かないなら、少なくとも気軽に骨を折らずに一振り(スイング)する程度ではだめだ。そうかといってスイング(訳者註・ゴルフの用語でたとえている)しなければならない。ただ立っているだけでは何もならない。前進するか休むか、どちらか一つである。前進しようではないか――微笑をもって。
スカウト運動に対する忠誠
少年たちに対する任務に加えて、スカウト運動全体に対しても義務があることを、隊長に覚えていてもらおう。少年たちをよい公民に作り上げて行こうという我々の目的は、半ばは祖国に寄与するものであって、いいかえれば、国内においてもあるいは平和な時には隣邦諸国を結び合せるような、親和と"ゲームを選ぶ"気持ちを持つ人たちの間の雄々しい頼もしい競争といってよいのである。
自分自身実行することによって自己犠牲と鍛錬を教える任務を負わされている隊長たちは、些細な個人的感情を超越する必要があるし、また自分一個の考え方はそれより高い全体の方針の前には屈服させるだけの広い心を持たなければならない。隊長たちの任務は、壁を作っている煉瓦のように各自の持場があって自分も少年たちと同じことをしながら、少年たちに"ゲーム"をさせるようにすることである。隊長一人一人は自分に割り当てられた仕事の範囲があって、それをよく挺身すればするほど、スカウトたちは訓練に応じてくれるものである。それであるから、スカウト運動のより高い目的を目標としさえすれば、或は今から十年先の結果を目ざしてみさえすれば、自分たちが適当に割り当てられている任務につ� ��ての現在の細目を了解することができるわけである。
要求されていることを良心的に納得できない人があるなら、その人が男らしくとるべき一つの道は、コミッショナー(訳者註・この役名は理事の場合もあり事務局幹部職員の場合もあり加盟国によって違う)なり事務局なりへまっすぐに持って行くことであり、そこでもし意見が合わなければ仕事をやめることである。目を開いて最初によく検べるべきで、それを後まわしにしては、細かい点が自分に都合悪いことがわかったり、それは職員が悪いからだと不平をいったりすることにあるから、公明であり得ない。
幸いにも我々の運動では、地方分権と地方当局に自由を許していることによって、多くの他の団体では不平不満の原因になっている煩わしい形式や手続を少なくしている。
また我々が、この運動全体に対する見方や忠誠において広い心を持つ隊長たちを擁しているのも実に幸いなことである。
隊長の報酬
ある人が私に向かってわざわざ、自分は世界で最も幸福な人間だといったことがある。私は、その人よりもっと幸福な人間――私自身のことを、その人に話してやらざるを得なかった。
諸君は、この我々の二人のどちらにもこの幸福を得るために戦わなければならないような困難は何一つなかったのだ、などと想像してはいけない。まるっきりその反対なのだ。
それは困難に立ち向ったという満足感、そして、それをうまく克服しおおせた喜び、より完全にしてくれるような苦痛に耐えて来たという満足感、そんな幸福なのである。
諸君の一生がばらの花の床であるようにと望んではいけない。もしそんな一生であったとしたら面白くはあるまい。
であるから、スカウトを扱って行くうちには、必ず失望やつまづきに出あうものと覚悟しなければならない。忍耐強くあれ――酒やその他の悪徳のためよりも忍耐の足りないために仕事や職業をだいなしにする人の方がずっと多いのである。腹の立つような批判や煩わしい取きめをある程度まで辛抱強く堪えなければならないだろうけど、報いはやがて来る。
克己という価を払って自分の任務を尽し、かつ少年たちに生涯を通じて他と違う資格を持たせるような人格(性格)を養ってやることから得られる満足感は、到底文字に書き表すことのできない報酬をもたらしているのである。もし放っておけばやがて青少年を蝕んでしまう害悪がはびころうとするのを防ぐために尽すということは、どんなに地位は低くとも、とにかく祖国のために何か貢献したという充実した楽しさを与えるものである。
隊長もコミッショナーも、委員や技術教師や育成会員また事務担当者も――"スカウター"という言葉で言い表せる人たちであるが、みなこの精神をもってボーイスカウト運動にたずさわっているのである。
この団体に対する信望もスカウト運動の発展も、こういう自発的に無報酬で働く人たちのお蔭である。ここに、よし語らずとも、多くの国々のうちに潜む立派な愛国精神の歴然たる証拠があるのである。これらの人たちは自分たちのしていることに対する報酬も賞讃も求めず、少年たちの訓練を組織だてる仕事のために自分の時間や労力や、多くの場合金銭までも投げ出している。祖国と人類に対する愛のためにそうするのである。
少年
スカウトの家族は――カブとスカウトと年長スカウト
自分の隊の少年を上手に訓練するための第一歩は、一般の少年というものについて先ず知り、次に隊の少年についてよく知ることである。ロンドンの倫理学協会の講演で、サリービー博士が次のように述べたことがある――"よい教師であるためには、子供というものの性質について、知識をもつことが第一必要条件である。少年や少女は、男や女の縮少版でもなければ、教師が物を書くための白紙でもない。子供たちは誰でも特有の好奇心を持ち、未熟で、その上うまく助け励ましてやり、形づくり、或は形を直し、更に抑えもしてやらなければならない不思議な心を持っている。
諸君が少年であった時、どんな考え方をしていたか、できるだけ思い出してみるのはよいことで、そうすれば少年たちの心持や希望することがずっとよく理解できるはずである。
次に掲げる少年というものの特質を、考えに入れておく必要がある―
ユーモア――少年というものはユーモアにみちているのだということを忘れてはいけない。それは深刻な面でではないかもしれないが、いつでも冗談を喜ぶものだし、物事のおかしい面にすぐ気がつく。彼らの感じる面白さ、おかしさを、一緒に感じさえすれば、少 年たちのために働くものは自分の仕事の楽しい明るい面を味わい、監督というより愉快な仲間ということになれる。
子供は8番目の物語のバルコニーから落ちて生き残る
勇気――昔通の少年は一般に相当の胆力、勇気を具えているものである。後年自尊心がなくなったり、いわゆる"不平家"とつき合うことが多くなったりすればともかく、生まれつきとしては少年は不平を言ったりこぼしたりしないものである。
色付――少年は大てい高度の自信を持っている。であるから子供扱いをされたり、あれをこうしろなどと指図されたりするのを嫌う。たとえ大失敗を招くことがあろうと、自分でやってみようとするものであるが、そうした失敗をすることが経験にもなり、自分の人間を作って行くことにもなるのである。
鋭敏――少年は大てい針のように鋭敏である。事物を観察し、注意し、それらの意味を推理するというような訓練をするのは容易なわけである。
刺戟を好む――都会の少年は、それが"疾走して行く消防自動事にしろ、近所の人たち二人のけんかにしろ"田舎の子供より町のさわぎに動かされやすい。また変化を求めるために、一つの仕事にせいぜい一カ月かニカ月しか腰がすわらない。
感応しやすいこと――誰か自分に関心を持ってくれるとわかった時、少年たちはその人の導くままに応じ従うもので、少年のこの英雄崇拝が隊長の仕事をたやすくさせる大きなカとなるのである。
忠誠心――これは限りない希望をかき立てるはずの、少年の性格の特長の一つである。少年たちは友だち同志の間で互に忠誠なのが普通で、これがまた自然に少年に友情を抱かせるのである。これこそ少年にもわかる友人仲間としての義理であり義務である。少年と いうものは外見は利己的かもしれない。しかし一皮むけば他人への助けに喜んでなろうとする気持があるものであるから、スカウト訓練のよい素地だというわけである。
少年が持つこれらいろいろの性質を考慮に入れ、研究するならば、指導者は一人一人の違った傾向に適するような訓練の仕方を見出しやすい。このような研究をすることは訓練の成果をあげるための第一歩である。私はかつて一週間のうち三つの違った場所で三人の少年に会ったが、その少年たちは三人とも、スカウティングの感化を受けるようになるまでは、改心の見込みのない無頼の不良少年だったということであった。この三人のそれぞれの隊長たちは、彼らの悪さの下に潜んでいる良いところを見つけ出し、そこを利用して彼らの特異な気質に適する仕事をさせた――そして今や、それぞれの立派なつとめにはげむ、過去の彼らとは全く生まれかわった、見事ながっしりした若者に三人ともなっているので� �った。こういう―つの成功を収め得たというだけでも、スカウト隊を組織する甲斐があるというものである。
Teacher's world誌("教師の世界")にカッソン氏が、少年――という性格の複雑な働きを説明して次のように書いている――
"私の経験から判断すると、少年たちは彼等自身の世界――自分たちのために自分たちで作り上げた世界を持っているのだといえる。しかもこの世界へは教師も学課も入りこむことができない。少年の世界はその世界自身の行事と標準、おきて、事件、うわき、世論を持っている。
"学校の先生や両親が何をいおうと、少年は自分たちの世界に対して忠誠をまもる。家庭や教室で教えられたものと全く違っていても、自分たちの世界のおきてに従う。自分たちのおきてを裏ぎるよりは、むしろわかってくれない大人の手によって与えられる苦痛を忍ぶ方を喜ぶのである。
"たとえば、学校の先生のいうおきては、おとなしいこと、無事であること、行儀よくすることを良しとする。少年たちのおきては、それと全く反対である。それは騒がしいこと、危険をおかすこと、刺戟のあることがお気に入りなのである。
"面白くふざけまわること(Fun)、戦うこと(Fighting)、食べること(Feeding)!(訳者註・つまり遊んで、けんかして、食べること)。 この三つのFは少年の世界に欠くことのできない要素である。この三つが基礎である。この三つのものこそ少年たちが熱中してすることで、この三つのものたるや学校の先生とも教科書とも関係がないのである。
"少年王国の世に従えば、一日四時間教室に座っているのは、時間と日光のあわれむべき浪費だというのである。机を買ってくれと父親にせがむ少年を――普通の健康な少年で――見たことのある人があるだろうか。また、外を駈けまわっていた少年が、客間に座らせて下さいと母親に頼むのを、かつて見たことのある人があるだろうか。
"たしかにあるまい。少年は本の虫ではないのである。おすわりをしている動物ではないのである。平和主義者でもなければ"安全第一主義"の信奉者でもなく、本の虫でもなければ哲学者でもない。
"実に全く少年なのである――楽しみと闘志にあふれ、いつも腹をすかせ、いたずらと大騒ぎをやってのけ、物事に目をつけ、刺戟を求めまわる、ただの少年である。もしそうでなかったら、その子は異常(アブノ―マル)である。
"教師のおきてと少年のおきてを戦わせておこうではないか。今までもそうであったように、これから先も少年の方が勝つだろう。いくらかの少年たちは負けて、その代り奨学金にありつくだろうが、大部分は抵抗をつづけ、国家の最も有能優秀な人物に成長するであろう。
"歴史上の事実をみても、幾千の特許を得た発明家エジソンは"あまり馬鹿すぎて教えられない"という先生の手紙を持たされて家へ帰らされたではなかったか?
"科学的法則の根本をつくったニュートンもダーウィンも、学校の先生から馬鹿扱いをされたではないか?
"こういう教室のろくでなしが、後年、有用な秀才となった例は幾百千もあるではないか?これらの実例が、少年たちの能力を伸ばしてやるには我々の現在のやり方ではうまく行かないのだ、ということを証明していはしないか?
"少年たちをそのあるがままに扱ってやることができるはずではないか?文法や歴史や地理や数学を、少年の世界の必要品となるように改作できるのではないか?我々大人の知恵を少年の言葉にほん訳できるのではないか?
少年は、入隊したらすぐきまスカウティングをはじめたがるのだ、ということを忘れないこと。であるから、はじめに前おきの説明をしすぎて彼の熱意を鈍らせないようにすること。ゲームやスカウティングの実によって少年の要求を充たしてやり、それから徐々に少しずつ基礎の細かいことを注入して行くとよい。
"結局、自分たちの正義のおきてと行動と冒険をやりとげて行くことに於いて少年たちは間違っていないのではないか?
"少年は少年だからこそ学ぶ先に行動するのではないか?少年は知的な指導がありもしないのに物事を自分でやってのけようとする、こ実に驚くべき小さな働き者ではないか?
"もし教師たちが、しばらくの間でも、生徒になり、現在いたずらに歪めよう抑えようとしている少年の生活を学ぶとしたら、もっと大いに要を得るのではなかろうか?
"なぜ流れに逆らうのか?川は正しい方向に流れているというのに。
"今こそ我々の役にも立たぬ方法を改め、実際のことと調和するようにすべき時ではないだろうか?"少年は少年らしく"などと嘆き声を出し続ける代りに少年たちの驚くべき精神を喜んでやってはいけないだろうか?少年というものの性格が持つ野性的なカを導いて、社会奉仕の道へと喜んで入って行くようにさせる以上に、ほんとうの教師にとって貴い愉しい仕事があるだろうか?
環境と誘惑
はじめにいったように、成功の第一歩は自分の受け持つ少年そのものを知ることであるが、第二歩はその家庭を知ることである。その子がスカウトと一緒でない時には、一体どんな環境にいるのか、それを知れば、その子にどんな感化が与えられればよいか、よく分るはずである。
その少年の両親の同情と支持があれば、またその両親たちがスカウト運動の目的と隊の運営について全幅の関心を持って協力してくれるようになっていれば、隊長の任務は正しい比重をもって軽くなるわけである。
場合によっては、その少年が家庭から受ける影響に悪いものがあって、それを克服しなければならないこともあろう。更に少年たちには他のいろいろな誘惑があるから、指導者はそれらと戦う準備をしていなければならない。しかし、これらについて前もってよく知っていれば、いろいろの誘惑が少年たちに悪い影響を及ぼさないように、指導者は自分の方法に工夫を加えることもできるはずで、このようにして少年たちの性格を最良の方向へと伸ばしてやることができるのである。
強力な誘惑の一つに映画の影響カがある。映画は少年たちにとって、たしかに大きな引力である。それだけにその引力をどうしたら止めることができるかと、絶えず頭をしぼっている人たちがいる。しかし、止めることが全く望ましいことだとしても、それは非常にむずかしいことの一つである。それより、映画を我々の目的のために最も良い結果をもたらすようにいかに利用したらよいか、という方が要を得ている。いかなる困難にも、それを味方につけたり、自分の行く方へ引ぱりこんだりして、対応して行くやり方に従って、我々は映画にはどんな価値があるかを知るように努め、それを少年たちの訓練にかなうように利用すべきである。もし監督が不充分であれば、暗示によって悪のための強力な道具になるに違� ��ない。けれど適正な検閲が保証きれるために措置はとられているし、それが継続している。しかし、悪のために力があるものなら良いことのためにも有力なものにすることができるはずだ。今では博物学や自然研究に関するすぐれた映画が製作されて自然界の過程について自分で観察するよりずっとよくわからせてくれるし、たしかに何時間かの授業にはるかにまさっている。歴史も視覚によって教えられる。映両には悲劇や英雄的なものを描いた劇もあるし,純粋に面白おかしく、笑わせる劇もある。それらの多くは、悪いものを非難し嘲笑する方へと持って行っている。子供たちが映画館に興味を持ち、行きたがるのを利用して、この視覚に訴えて教えることで、すばらしく良い効果を持たらすようにできるはずだということは疑う� �地がない。映画はまた教育の成果をあげようとしている学校に対しても、今いったような効果を持つのだということ更を覚えておきたい。スカウティングでは映画の利用をこれと同じ程度にはできないけれど、我々の努力の促進剤の一つとして利用することはできる。我々は、少年たちをひきつけるものが他にどんなにあろうとも、スカウティングそのものを少年たちが充分ひきつけられるようなものにし なければならない。
少年の喫煙とその健康に及ぼす害、賭けごととそれに関連して生じる不正、飲酒や女の子とのらくら遊びまわる害悪、不潔、その他は、自分の隊員たちの日常の環境を知っている隊長によってのみ矯正され得るのである。
その矯正は禁じたり罰したりすることではできない。それよりも、少年たちを誘惑するものと少なくとも同じくらい魅力がありながら結果から見て良い何物かを代りに使ってすればできる。
少年犯罪は少年の中に自然に芽生えるものではなく、大部分は少年が持っている冒険心、その少年自身の愚かき、しつけの不足、または各人の性質などのどれかによって生じる。
当然のようにうそをつくことも、子供たちの間に見られる非常に一般的な欠陥である。しかも困ったことに、これは世界中に拡がっている病気である。文明諸国にもあるけれど、未開の民族の間で特に出会わす。真実を語ること、またその結果として人間が頼むに足る人物として高められることは、その人間の人柄ばかりかその国の国柄にも差異をもたらす。であるから、青少年の間に名誉心と真実を語ることの風潮を高めるよう、及ぶ限りのことを尽すのが我々の負うべき義務である。
隊の本拠とキャンプ
悪い環境に対する主な解毒剤はいうまでもなく良い環境を代りに与えることでそれには隊が本拠にしている所とスカウトのキャンプが一番効き目がある。隊の本拠といっても、学校の大きな教室を借りてする一週一回半時間の訓練のことをいっているのではない――少年たちを扱う人たちの計画にもよくあることだが――そうではなくて少年たちが自分たちのものだと思うことのできる湯所、たとえば地下倉であろうと屋根裏であろうとかまわない、必要があれば毎晩でも集まることができ、気に合った仕事や娯楽、あるいはいろいろのプログラムや明るい楽しい雰囲気をそこへ行けば見出せるような、そういう場所のことを私はいうのである。もし隊長がこういう場所を獲得することができさえしたら、自分の隊のある� ��供たちには良い環境を与えたことになり、それは、さもなければ彼らの心や性格の中に忍びこんだに違いない毒に対して、最も効き目のある解毒剤になるだろう。
それからキャンプ(これは、できる限り回数を多くすべきである)は、隊の本拠よりも更に一歩進んだ、ずっと効力の強い解毒剤である。野外の生々しい奮囲気と、テントの中で、野原で、或はキャンプ・ファイアを囲んでの仲間同志という精神、これらが少年たちに最良の気分を呼吸させ、隊長には少年たちをしっかりとつかまえ、自分の人となりを少年たちにはっきりわからせるのにこの上ない機会を与えるものである。
少年たちをつかむには
少年たちを捉えて良い影響のもとにおこうとする人を、私は魚をとろうとする釣人のようだと思う。
もし釣人が自分の好きな食べものをエサにしたとしたら、おそらく多くは釣れまい――特に用心深い、獲物として値うちのある魚はとれないだろう。そこで彼はとりたいと思う魚の好物をエサにする。
少年も同じである。もし諸君が高尚だと考えることを説明しようとしたら、少年たちの心を捉えることはできないにきまっている。明らさまな"ためになって有りがたい"ものだと、中でも元気のよい子供たちは怖れをなして離れてしまう。実はこういう子供たちこそ諸君はつかみたいのだ。唯一の方法は、少年たちがほんとうに引きつけられ、興味を持つものをさし出してやることである。そこで諸君は、スカウティングがそれだということを、発見するだろうと私は思う。
そうしてから諸君が少年たちに望むところのもので味つけすればよいのだ。
少年たちに対してカをかすためには、諸君は彼らの友だちにならなければならない。しかし、彼らが隊長に対する遠慮やはにかみをなくするまでは、この足がかりを得るのを急ぎすぎてはいけない。F・D・ハウ氏はその著"児童の書"の中で、次のような物語に子供を扱う正しい過程を要約している――
隊長がすることなら、隊員はするだろう。隊長は自分のスカウトたちの中に映し出される。隊長の自己犠牲や愛国心にならって、スカウトたちはみずから進んで自己犠牲や愛国的奉仕を実行する。
オハイオ州立大学のマーチングバンドのCDを購入する場所
"毎日の散歩の道すがら、ある汚い町を通っていたある男が、よごれた顔をした発育のわるい、小さな男の子が、バナナの皮で遊んでいるのを見かけた。彼はその子にあいさつして見せた――とその子は怖がって尻ごみしてしまった。翌日また彼はあいさつして見せた。その子は別に怖がることはないのだとわかったらしく、彼に唾を吐きかけた。次の日は、その子はその男をじっと見た。そのまた次の日散歩して行く男を見ると、その子は"こんちは?"と呼びかけた。そうしているうちに、その子は男のあいさつを待ちうけていて微笑み返すようになった。おしまいには、その少年が――そのちっばけな子が――町角で待ちかまえていて、その汚い小きな手で、その男の指を握るようになった時、ついに勝利は� ��全となったのであった。それは物淋しい、みすばらしい通りであったけれど、その男の生涯を通じてそこは最も輝かしく明るいと思われる湯所の一つとなったのである。
スカウティング
活溌な戸外生活はスカウティング精神を体得するための秘決である
スカウティングは少年たちにとって一つのゲームである。少年たちの采配によって行なうこのゲームで、兄貴分たちは弟分たちに健全な環境を与えることができるし、また例えば自分たちの社会人生を養うために役立つようないろいろの活動をすすめることもできる。スカウティングとはこのようなゲームである。
このゲームの最も強い魅力は、自然について学ぶことと林間生活技術(ウッドクラフト)である。これは集団でするのでなく各個人が取り組むものである。これはまた、純粋に肉体的あるいは精神的な能力とともに知的な内容をも向上させる。
はじめは以上のような目標を目ざすことだけを心がけたものであったが、――経験を重ねた今日では、正しいやり方をすれば(目標を目ざすだけでなく)目標としたものを身につけることができるのだということがわかった。
スカウティングの目的と方法の最もよい説明者は、ニューヨークのコロンビア大学師範部のジェームス・E・ラッセル部長ではないだろうか。ラッセル部長はこう書いている――
"ボーイスカウト運動のプログラムは、少年用のサイズに裁断した一人前の男の仕事である。スカウティングは、彼がまだ若いから魅力を感じるというだけではなく、これら一人前になって行く一個の男だからひきつけられるのだ・・・スカウティングのプログラムは大人もしないようなことを少年に要求しない、その代り、少年の現在の場所から行きつくべきところに達するまで、一歩一歩引っぱって行く・・・"スカウティングの著しい特長は、その課程というよりむしろその方法にある。少年たちに正しいことをやらせ、正しい習慣を身につけさせるように、導いて行く組織的な計画として、スカウティングは最も理想的である。スカウティングの実行で二つのことが目につく―― 一つは習慣が形づくられるとい� ��こと、他の一つは進取、自制、自信、自立の機会を得ることである。
"進取の気を養うについて、スカウティングは単に少年にプログラムを与えるだけに止まらず、その運営の機構をすばらしい方法でさせている。その運営方式をみると、外見を飾った他の方法などを打ちやぶるすばらしい機会が備えてある。これを班と隊において見ることができる。これは少年たちにティームになって活動することを教えている。共通の目的に向って協力するようにさせるのであるが、このこと自体が民主的である・・・
"スカウトたちを、聖人ぶった報酬を得ようというような変な精神からでなく健康な愉快な気分で、まず手始めには善行をするように、そしてその次に前進して社会のために貢献するように、導き励ますことによって、諸君はスカウトたちの上達やしつけや知識を増すよりもっと大きなことを彼らのためにしてやることになる。というのは、いかにして生計を立てるかということよりも、いかに生くべきかということを教えることになるからである。"
スカウティングは簡単である
スカウティングは外部の人にとって一見非常に複雑なもののように見えるらしく、少年たちを教えるためには山のように多くの、いろいろの種類のことを知らなければならないのだと思いこんで、隊長になることをしりごみする人が多いようである。しかし、次のことがわかりさえすれば、誰もしりごみすることはない――
1. スカウティングの目的は実に簡単である。
2. 隊長は、少年が興味を持ち、実際に手をつけて自分で間違いなくできるまでやり続けたいと思うような活動をいろいろ指示して、少年が自分で学ばうという野心と希望を持つようにする。(このような活動は"Scouting for Boys"に細示してある)。
3. 隊長は自分の隊の班長を通じて仕事をする。
スカウティングの目的
スカウト訓錬の目的は、我々の将来の社会人としての在り方の標準、特にその性格と健康について改善し、利己を奉仕におきかえ、青少年を道徳的にも肉体的にも個々の人間として役立つものに育て、その有用性を他人に対する奉仕に使うようにする、これである。
社会人性とは一口にいうと"共同社会に対する積極的な忠誠"ということになっている。法律を守り、自分の職業に励み、国の安泰について心配するのは"守護の神きまにお任せして"政治やスポーツやその他の活動については自分の好きなことをする、だから自分はよい社会人だ、よい国民だと考えていられるのは自由の国であるなら誰にでもできる、当り前のことである。こんなのは受動的な社会人性である。しかし、受動的な社会人性では自由と正義と名誉の徳をこの世の中に保持して行くために不充分である。積極的な社会人性のみがそれをなし得るであろう。
スカウト訓練の四部門
自分から進んで働きかける社会人性を育てて行く目的を達成するために、よい社会人を作り上げるに欠くことのできない次の四つの部門を我々はとりあげ、それを外面からでなく内面から教えこむ
人格(性格)―これを我々は次のことによって教える――班制、スカウトのおきて、スカウトの教訓ばなし、ウッドクラフト、班長の責務、ティーム・ゲーム及びキャンプ課程に必要な知識、これは創造主なる神をその創造物を通じて認識すること、自然の美しさを感知することを含み、それは戸外生活で馴染みになる植物や動物への愛を通じてされる。
健康と力――これは、ゲーム、運動、及び個人的な衡生と食餌こ関する知識によつて得る。
工作と技能――屋内活動によって行なわれる場合もあるが、多くは特に開拓、架橋、キャンプ、手工芸などによる自己表現など、すべて有用な働き手を作るようなことを通じてする。
奉仕――ささやかな善事をはじめとして自分たちの周囲の小社会に対する奉仕、事故の場合や人命救助に至るまで、"善行"による宗教信仰の実行を日常生活にとりいれることである。これら四部門の細目は後の表に示すが、説明はこの本の第U部に掲げる。
スカウティングの諸活動
"スカウティング"という言葉は、森林生活者、探検家、猟師、船乗り、飛行家、開拓者、辺境移住者などの作業と属牲という意味になる。
これらの作業や属性の要点を少年たちに味わせるために、我々は少年たちの要求と本能を満足させ、同時に教育的なゲームと実行の一体系を提供する。
少年の立場からいうと、スカウティングは少年たちを兄弟愛の一つのギャング(児群)に組織してやることで、このギャング組織というのが、遊びのためであろうとワルサのためであろうと又はノラクラするためだろうと、彼らの自然な形であるからで、またスカウティングは彼らにスマートな服装と装備を与え、彼らの夢とロマンスに訴え、しかも活発な戸外生活をさせる。
親の立場から見ると、スカウティングは我が息子に身体的な発育と健康を与え、よいしつけと胆力と武士道精神と愛国心を備えさせる―― 一言にしていえばスカウティングは、我が子が人生の道を進んで行くために何よりも大切な"人格"(性格)を作り上げるもの
である。
スカウト訓練は上下貧富あらゆる階層の少年たちをひきつけ、聾唖盲目など身体障害の少年たちにさえ興味を持たせる。学びたいという"願望"を呼びおこすのである。スカウティングの活動は少年のいろいろの考え方を研究した結果、教えられるのでなく、みずから習い覚えようとするようにし向けることを原則としている。
水泳、開拓、料理、森林作業などができることや、そのほか男らしさ、役に立つことなどを証明する一級二級の進級章のほかに、スカウティングは、いろいろの種類の楽しみごとや手工芸などが熟達すれば得られる技能章を通じて、技術的習練のよいイトグチを与える。我々が初級でこんなにも多くのことを試みるその目的というのは、十人十色の少年たちがいろいろの種類のことを試みてみるようにし、注意深い隊長が少年各個の特別な傾向を認めて、それに応じた指導奨励をしてやるからである。これが個性を伸ばし、生涯の仕事に足がかりをつけさせる最良の道筋である。その上、我々は少年が自分で自分の身体の発達と健康に責任を持つことを奨励し、また我々は彼の名誉心に信頼して毎日誰かに対して善� �をすることを期待する。
隊長に少々なりとも少年の心があって、すべてを少年の立場から見ることができるならば、そして創意カに富んでいる人なら、新奇なものを求める少年の渇望を充たしてやるために、ちょいちょい変化をつけては新しいプログラムを発明することができるはずである。劇場を見るとよい。ある演し物が見物に受けないとわかったら、千秋楽の頃には受けるようになるだろうなどと思って打ち続けはしない。その催し物をやめて別の新しいものとさしかえる。
少年たちは汚く淀んだ水たまりにも冒険を見出すのであるから、もし隊長が童心を持った人であれば自分にもそこに同じ冒険が見出せるはずである。新しい思いつきをひねり出すためには大した費用も道具もいらない。少年たち自身がいろいろの思いつきを出してくれることが多いからである。
少年たちをひきつけるプログラムを見つけるために更に進んだ方法は、隊長が耳を使って頭を休めることである。
戦争で斥候兵が暗夜出て行って敵の動静を探ろうとする時は、大部分耳をすまして聞くことによって情報を得る。それと同じに、隊長が自分の隊員たちの傾向あるいは性格がどんなものか皆目わからない時、大方のことは聞くことによって知ることができる。
耳を立てていることで隊長は各少年の性格についての細かい見通しと、その少年に最もよく興味を持たせる方法が何であるかを知ることができるはずである。
班長会議での討議やキャンプ・ファイアを囲んでの話しの時でも同じである。黙って聞くことと観察することを自分のなすべき特別な仕事にすれば、諸君が説教して少年たちに注入できるものよりもずっと多くの知識を彼らから得ることができるだろう。
また、父兄を訪問する時、スカウティングの価値を説きつけようなどと思ってはいけない。それよりも、息子たちを訓練するについての彼らの考え方は何か、スカウィテングに彼らは何を期待し、あるいは何を不足と思っているか、聞き出す方がよい。
一般的にいって、よい思いつきがない時でも、スカウトたちが当然好きなはずだと諸君が考えるものを彼らに押しつけてはいけない。それより、耳を立てることによりあるいは質問することにより、みんなが一番好きなのは何であるかを知り、それらをどの程度に――つまり少年たちの好きなことが彼らに果して有益なもののようであれば――やればよいか考えるべきである。
楽しい笑いごえが響き返り、競技の勝をよろこび、新しい冒険に新鮮な興奮を湧かせるような隊ならば、退屈のために隊員が減って行くことはないに違いない。
社会人性育成のための スカウト訓練計画分析表 | |
1. 人格(性格) | |
次を目的として 次を実行して 公 民 フェア・プレイ 他人の権利尊重 し つ け 指導牲・責任 徳 性 名 誉 武士道精神 自恃・勇気 物事を楽しむ能力 高尚な思想 宗 教 心 敬 虔 自 尊 心 忠 誠 | 次を実行して 班 作 業 ティーム・ゲーム 名誉会議 班長会議 スカウトのおきて及びちかい スカウト作業及びその他の活動 自然の鑑賞 自然にまつわる教訓及び自然研究 天文知識 動物愛護 他人への奉仕 そ の 他 (次表参照のこと) |
2.健 康 と 力 | |
次を目的として 健康
力 | 次を実行して 自分の健康に自分で責任を持つ 衛 生 節 制 制 慾 キャンピング 身体の発育向上 ゲ ー ム 水 泳 ハイキング 山登り・野外活動 |
3.手工芸と技能 | |
次を目的として 技術的熟練 創意工夫 知 力 観 察
推 理 自己表現 | 次を実行して スカウトクラフト キャンプ技術 新分野に手をつける 技能章獲得 種々の手工芸によって 道楽(訳者註・Hobbies――楽しみでやるもの) 林間生活技術 追 跡 |
4. 奉 仕 | |
次を目的として 利己主義でないこと 公民の義務 愛 国 心 国への書仕 人類への奉仕 神への奉仕 | 次を実行して スカウトのおきて及びちかい 善 行 救 急 人命救助 防火消防の技術 救援隊活動 病院手伝い その他社会奉仕 |
スカウティングは野外でする愉快なゲ―ムである――そこで、少年の心を失わぬ大人と子供が兄と弟のように一緒になって冒険をしてまわり、健康と幸福と工作と人助けになることを収穫する
ス カ ウ ト 精 神
基調となっている特色はスカウト運動の精神で、この精神を解く鍵はウッドクラフトと自然教訓のロマンスである。
いやしくも少年なら、否このことについては大人といえども、この物質的な時代にあって誰か大自然と野外生活の呼びごえにひきつけられないものがあろう?
それは原始的な本能であるかもしれない――しかし、その本能は実在する。ただ新鮮な空気と太陽の光をさもなくば灰色の人生に導き入れるだけにせよ、この鍵で一つのすばらしい扉を開くことができるのだ。
しかし、普通それ以上のものが得られる。
大自然の勇者たち、辺境の移住者や探検家、海上の漂浪者、雲の中を行く飛行家たちは少年たちにとってのパイド・パイパー(訳者註・Pied Piper、笛の音で引きよせハムリンの町の鼠を全部捕えたが、そのあと、町の子供がみんなその笛の音について行ってしまったという伝説の魔法の笛吹き)である。
笛吹きが連れて行く所へ少年たちは従い、笛が男らしい勇敢な歌、冒険と努力の歌、有能と熟練の歌、他人のために快くおのれを捧げることを歌った歌をうたう時、彼らはその笛の音につれて踊るであろう。
ここにこそ少年のための肉があり、魂がある。
はるか遠くに目を向けて歩いて行く少年を見るがよい。彼が夢みるものは彼方の大平原であろうか、模糊たる大海原であろうか?いずれにしても、手近にあるものではない。わかり切っているではないか!
諸君はケンシントン公園で野牛の群を見たことはないか?またアルバート記念館のかげにあるスー・ロッヂ(スー族インディアンの小屋)から立ち昇る煙が見えないか?私はここ数年もこれらを見ている。
少年たちは今やスカウティングによって、森林生活者の偉大なる世界団体(訳者註・スカウトのこと)の一人として開拓者の装具に身をよそおう機会を持つことができるのだ。いろいろの足跡やしるしを追い辿り、信号をあげ、自分で火を焚き、自分で小屋を建て、食い物をつくることができるのだ。開拓者の、あるいはキャンプの技術のあらゆる事柄を自分でやることができるのだ。
少年の夢は大平原や大海原のかなたに拡がる。スカウティングをする時、彼はインディアンや開拓者や森林生活者になったような気持になる。
彼は少年仲間の指導者によって導かれる自然なギャング(児群)に所属する。
彼はけものの群の一匹かもしれない。しかし自分自身の本性はちゃんと持っている。自然の中から人生のよろこびを知るようになる。
さてそこには精神的な面もあるのである。
森の中のハイクで自然の教えの幾しずくかを飲みこむことによって、小きな魂は成長し、あたりを見まわす。野外は観察と驚くべき宇宙の不思議の数々を知るための優秀な学校である。
それは日毎目の前に存在する美しいものを鑑賞する心を開かせてくれる。煙突のかなたの空に星があることを、映画館の屋根の上にタやけ雲がかがやくことを都会の子供たちにわからせてくれる。
自然について学ぶことは、無限についての、歴史上の、そして微小物についての諸問題を、大いなる創造主の仕事として一つの調和された全体にまとめて数えてくれる。これらの中で、性も生殖も名誉ある一つの役割を果すのである。
スカウトクラフトは最も無頼な少年をも高尚な思想と神を信ずる領域へと導く一つの手段であり、これは日毎に善行をするというスカウトの努めと相まって、親や牧師がその望むところの信仰の形を楽につくり上げることができるような神と隣人への努めの基礎を与える。
"カウボーイのように、太郎や権ベエのように、子供を着飾らせることは思いのままであるし、ペンキのようにピカピカするまで磨き上げてやることもできる。けれどそれからお尻を引ぱたいてやったとしても勇者や聖者に仕上げようとは、どっこい、そうはいかない"
これをなし得るものは外見の飾りではなくて、内なる精神である。
しかもその精神は、よく知ってみれば少年の誰にでもあるので、ただそれを見出し、あらわしてやりさえすればよいのである。
彼の"名挙にかけて"実行するスカウトのちかいが少年の心の中にある限り、それとスカウトのおきては我々をくくる修行の武器であって、100人のうち99人までこれが役立つ。少年は"するな"によって支配されないが"する"には従う。スカウトのおきては少年の欠点を抑圧するためでなく、むしろ彼の行動の手びきとして工夫されているのである。よいしつけとは何かを単に述べそれをスカウトに期待しているに過ぎない。
班 制
班制は、スカウト訓練が他の諸団体の訓練と異なる一つの重要な特色であって、この班制が正しく用いられれば、成功すること絶対確実である。成功せざるを得ないのだ。
6人から8人の班に組織し、それぞれ信望ある指導児(班長)のもとに別単位にして訓練することは、よい隊をつくる秘訣である。
班は、仕事のためであろうと、遊びのためであろうと、訓練や義務のためであろうと、常にスカウティングする単位となる。
人格(性格)訓練のための貴重な一歩は、一人一人に責任を負わせることである。このことはまず班の責任ある指揮児となるべき班長をきめることですぐ実行できる。自分の班の班員一人一人をしっかり捉え、その質を向上させることは一に班長の責任である。これは大へんな任務のように聞えるけれど、やってみればできるのである。
そこで、班と班との間の張合いと競争によって班精神というものが生み出されるのであるが、これは少年たちの気風を高揚し、全体的に有能さの標準を一層向上させることになるから、非常に申し分がない。班の中で少年たちは各自が一つの責任ある単位であること、また自分の班の名誉はスカウティングをする自分の能力如何にある程度かかっていることを自覚する。
班長会議――名誉会議
班長会議と名誉会議は、班制の重要な一部分である。これは一つの常任委員会であって、隊長の指導のもとに、隊の管理、訓練、両方の事柄を処理する。この会議はそのメンバーたちに、自尊心と自由の理想に加うるに、責任感と権威に対する尊敬心を養い、同時に個人的全体的に将来の社会人たる少年たちに貴重な議事手続の練習をさせることになる。
班長会議は常例の事柄とパーティーとかスポーツのような隊の催しごとその他を受持つ。この会議に次長たちも仲間入りさせることが都合のよいことが多いが、次長たちの助けも得られると同時に、彼らにも議事手続の経験と練習をさせることになる。名誉会議の方はもっぱら班長だけで構成される。名誉会議は、その名の示すように、訓戒、表彰の問題などを扱う特殊の役目を持っているのである。(訳者註・日本で少年幹部会議、通称グリーンバーといっているものがこれに当る。)
班 制 の 価 値
班制から得られる非常な価値を、隊長が認識することは大切である。それは隊の永続的な活動力と成功のための最も良い保証である。班制は隊長の肩から、きまり切った小さい仕事の大部分をはずしてくれる。
しかし、第一に主要なのは――班制は各個人にとって人格(性格)養成学校であるということである。班長にとっては、それが責任を負うことと指導精神の内容についてのよい実習となる。班員にとっては全体の興味と利益に対しては自我を二の次にすること、協力と仲間同志というティーム精神に関連して克己と自制を本領とすることを班制で学ぶことができる。
しかし、この班制からほんとうに良い成果を得るには、少年指導者(班長たち)に真に自由に責任をとらせてやらなければいけない――もし部分的な責任だけを与えたとしたら、部分的な結果しか得られないだろう。これの主要な目的というのは、少年たちに責任をあてがってそれだけ隊長の面倒を減らそうというのではなく、少年たちの性格を伸ばすために最もよい方法だからなのである。
権威と責任を班長の手にほんとうに委ねている隊は最もよい進歩を遂げる。これぞスカウト訓練の秘訣である
成功を希望する隊長なら班制とその方法について書いてあることをよく研究するばかりでなく、読んだことを実行に移さなければいけない。大切なのは物事を実行することで、絶えざる試みによってのみ班長もスカウトも経験することができるのである。隊長が隊員たちにやらせればやらせるはど、彼らの反応は大きく、カと性格はますます伸ばされるにちがいない。
スカウトのユニフォーム
"スカウトが自分の務めをわきまえ、おきてを実行している限り、ユニフォ―ムを着ようと着まいと少しも構わない"と私はよくいったものである。しかし実際を見ると、ユニフォームが買える者で着ていないスカウトは一人もいない。
止むにやまれぬ気持がユニフォームを着させるのである。
同じことがスカウト運動を動かしている人たら――隊長や役職員たちにも自然に作用している。彼らは、もしいやならユニフォームを着る義務はないのである。しかし、同時に、彼らは自分たちのことより、むしろ他の人たちのことを考慮しなければならない地位にある。
私個人のことをいえば、たとえ一班を訪れる時でも私はユニフォームを着る。これは少年たちの精神を高めるのに役立つと信ずるからである。ユニフォームは一人前の大人にならないものだけが着るわけではないのだ、ということがわかれば少年たちのユニフォームに対して持つ価値感は高まり、自分たちと同じ兄弟仲間であることを重要に考えくれる大人たちから、自分たちが真剣に扱われているのだということがわかれば、少年たちはみずからを高く評価する。
ユニフォームのみだしなみのよさ(スマートネス)や細部に至るまでキチンとしていることなど、些細なことと思われるかもしれないが、自尊心を養う上に価値があり、見える所だけで判断する外部の人々からスカウト運動がどう思われるかを考えると、ユニフォームは重大な意義を持つのである。
手本を示すことが大きく取り上げられる。しまりのない身なりをした隊を見せてごらん。私にはしまりのない身なりをした隊長だなということがすぐわかる。諸君がユニフォームを着る時、あるいは小イキに傾けた帽子の被り具合を確めてみる時このことを思い出してくれたまえ。
諸君は隊員たちのモデルであるから、君たちの身だしなみのよさは彼らにすぐ反映するにきまっている。
隊 長 の 担 任
スカウティングの原理はすべて正しい方向をとっている。これを応用して成功するかしないかは、隊長の責任であり、隊長が如何に応用するかにかかっている。特にこの点について隊長を助けようというのが、いま私が目的とすることで――第一にスカウト訓練の目的を示し、第二にそれを実施して行くのによいと思われる方法を参考に供したいと思う。
大方の隊長たちは、細かい点まではっきりしたことを教えてほしいと思っていることだろう。しかし、ある土地のある隊又はある種の少年に適当なことが、そこから1哩と離れていない所でもいうに及ばず、ましてや世界の各地、全然ちがう状態の国々に存在する隊や少年には適当ではないだろうから、細かい点まではっきりいうことは実際不可能である。そうはいうものの、一般的な参考になることをある程度提供することはできる。それを応用しながら、隊長は自分の隊がうまく行くためにはどんな細目がよいか自分で判断をするわけである。
しかし、細かい点にわたる前に、もう一度繰り返させてもらいたい――仕事を重大に考えすぎておじけるな、と。一たん目的がわかりさえすれば怖れはたちまち消えてしまう。そうしたら、目的をいつも念頭において、それにふさわしい細目を用いて行きさえすればよいのである。
"山頂のピーヴリル"(註・ウォルター・スコットの小説)にあるように――"理想は高くあるにせよ、我々の最高の理想を成し遂げるかどうかが問題ではない"。
時として、輝かしくも可能と思われることをほとんどかき消してしまうような困難が被いかぶさってくることがある。けれども、困難は大ていそれほど大きくなく、諸君が詰めよるにつれて消え去るものなのだ、ということを覚えていれば気が楽であろう。次の古いニグロの歌を読んで安んじてくれたまえ――
"鉄道線路のずーんと向うを眺めるとさ、
頭かかえて、苦心さんたん考えこむよ、
二本のレールがくっついてしまってるに、
ハア、一体どうして汽車は行けるもんだか?
"だけんど機関士は一向心配もせんらしい、
だってさ、汽車は突っ走ってくるものな。
そこで、そばへ寄ってよつく見たれば
何とレールは二本、線路もオーライさ。
"おら達もちょっくり同じこって、
さきの暮しは心細くて、どう切抜けたらええもんか、
だけんど、その場になってみりや思ったより広くて
十頭曳きの荷車さ通れるってわかるだからな!
(サタデーモーニングポスト紙より)
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