島津奔(はし)る
島津奔(はし)る
島津家といえば薩摩。薩摩といえば明治維新、西郷隆盛と、歴史好きな方なら、すぐに連想されるでしょう。戦国時代に、勇猛果敢さで、その名を轟かせた薩摩兵。その剽悍(ひょうかん)な兵士たちを縦横無尽に指揮し、九州を制覇した島津四兄弟。外様大名の雄として、徳川幕府ですら一目置いた薩摩藩は、ついに幕府を倒し、明治維新を成し遂げます。この物語は、その礎(いしずえ)を築いた薩摩の太守・島津義弘の半生を描き、柴田錬三郎賞に輝いた、池宮彰一郎(1923〜2007)の代表作です。
世に名高い島津義弘は、戦国大名・島津貴久の次男として生まれました。九州制覇の直後、豊臣秀吉の薩摩征伐に屈し、兄・義久は出家・隠居を余儀なくされます。兄に代わって薩摩の太守 となった義弘は、武将・戦略家として秀でていたばかりでなく、政治的な大局観と、屈従を拒む強烈な意志をも併せ持った人物でした。
家臣を大切にした彼を、家臣たちもまた強く慕い、彼の指揮の下、果敢に戦いへと身を投じて行きました。大友宗麟との合戦(耳川の戦い)において、義弘は6千対6万という圧倒的な戦力差をはね返し、薩摩島津の名を天下に轟かせたのです。
義弘はまた、信義の人でもありました。慶長の役の際には、味方の退却を援けるため、最後まで半島南端に留まり、勢いに乗って押し寄せる明の大軍を迎え撃ちました。その時彼は、わずか7千の兵で20万の明・朝鮮軍を徹底的に打ち破り、「石曼子」(シーマンズ)と恐れられたといいます。
しかし、島津義弘の名を不朽のものとしたのは、最早伝説となっている、関ヶ原での戦いぶりでしょう。上下2巻の7割を占める、天下分け目の戦い前後の物語は、読者の胸を沸き立たせ、強い感動を与えずにはおきません。
強悍をもって鳴る島津を引き込もうと、懐柔策や恫喝を駆使する、徳川家康と石田三成。折りしも薩摩では、太守を無視して専横をほしいままにする伊集院忠棟が誅殺され、それがきっかけで起こった内乱が、ようやく鎮圧されたばかりでした。国力の建て直しを第一と考える義久は、何とか薩摩の中立を維持しようとしますが、時代はそのような中途半端な態度を許さない状況になっていました。
兄・義久や、跡継ぎと定めた長子・忠恒と離れ、京に 留まって、外交と情報収集を行っていた義弘は、その状況を的確に読み取ります。しかし、辺境の地にあって時代が見えない義久は、自分より遥かに優れた弟への嫉妬も手伝って、頑なな態度を崩しません。「増援軍の派兵はしない」。義弘の度重なる要請への返答は、いつも同じでした。かくして義弘は、わずかな兵と彼自身の判断を頼りに、この難局に対処しなくてはならなくなったのです。
小心者で猜疑心の強い家康か。
大局が見えず、偏狭で官僚的な三成か。
どちらについたとしても、決戦に勝利した方が、薩摩の地に介入してくるでしょう。どちらの陣営にとっても、容易に従わぬ誇り高い島津は、目の上のこぶだからです。そのことが、義弘には良く見えていました。
故郷のことを考え、義弘は東軍に� �方することを決意しますが、頑迷な鳥居元忠は彼を疑い、伏見城への入城を拒絶してしまいます。已む無く義弘は、西軍に参陣することとなったのですが、前線で戦うには兵が足りません。戦いの後、薩摩を守るためには、島津の存在感を示すこと。にも拘らず、彼の手元には、わずか8百の兵しかありませんでした。東西ともに、数万もの大軍が結集するであろう戦場で、それはあまりにも少な過ぎたのです。
ところが、この時、前代未聞のことが起こります。
「俺(おい)たちん殿様(とのさあ)が、お命危なか御難儀じゃっそうじゃ!」
「俺は行くど!」
「俺もじゃ!」
「走れ!」
「遅るっな!」
「殿様の御難儀ぞ!突っ走れ!」
平時は田畑を耕していた、『衆中』と呼ばれる足軽から、『地頭』と呼ばれる上級武士まで、何百という兵士たちが、一斉に上方へと走り出したのです。まさに、義弘の威徳でした。彼を一途に慕う兵士たちは、義久や忠恒の命を無視して、生国を飛び出し、決戦場へと奔(はし)ったのでした。九州の南端・薩摩から、決戦場の関ヶ原まで、直線距離でも8百キロ以上。道を辿れば、そ� ��倍近くはあったことでしょう。傍から見れば、無謀以外の何ものでもありません。けれども彼らは、それを成し遂げたのです。
「島津家中、上方へまかり通る!」
後世に長く残った一言とともに、島津兵たちは山谷を走破し、関所を駆け抜け、北へ北へと走ります。その数、実に千名以上。鎧櫃(よろいびつ)をかつぎ、槍を手にして、ひた走る彼らを、どこの関所も制止することはできませんでした。
「強悍島津を避けよ。手向かうことなかれ。彼らは物狂いに狂っている」
領地境の関所には、そのような命令が届いていたのです。
激しい風雨、土砂を押し流す濁流、身も凍える夜の寒さ、そして耐え難いまでの飢え。しかし彼らは、畑で盗んだキュウリや大根を生のままかじり、溝の泥水を飲んで、よろ� ��きつつも走り続けました。
衣服は裂けちぎれ、物乞いにも等しい格好で走る彼らの噂は、人々の口から口へと伝わり、庶民の人気は爆発します。
まさに、前代未聞の走り。
あるじの危急に、雲煙万里の山坂を越えて奔る、島津家中。人々は感動し、街道に並んで、島津兵たちに食べ物や水を手渡すようになります。沿道に住む人たちは、納屋を開放して休息所に提供し、医師たちは傷ついた者たちを手当てします。暖かい味噌汁や握り飯が振舞われ、破れた衣服に着替えを差し出す者までいたといいますから、いかに熱狂的な歓迎であったかが分かると思います。
この報に接して、鹿児島城に、衝撃が走ります。
「領内の地頭・衆中、上方の情勢急迫を聞いて、主命を待たず、疾走しあり」
「疾走だと� �?」
義久は、目を剥いて叫びます。
「おのれ、勝手な真似ん仕くさって・・・!命ん犯し、上方に走る者は、国抜けと見做す、斬れ!」
怒髪天を衝くばかりの義久に、しかし家老の一人は言いました。
「俺(おい)も、身軽ん体じゃったら、走りたかと思(お)め申(も)した」
・・・我、遂に弟に及ばず。
義久は、絶句するしかありませんでした。
こうして、義弘の軍勢は、約1千6百にまで膨れ上がります。宇喜多秀家や福島正則などとは較べるべくもありませんが、それでも合戦に臨む形だけは出来上がりました。
けれども、「島津を使い捨てる」つもりの石田三成は、義弘の進言を全く受け入れようとしません。それどころか三成は、机上の軍略を至上のものとし、百戦錬磨の諸将が勧める戦略を、悉(ことごと)く撥ね付けてしまいます。軍を分散した三成は、既に内応している小早川秀秋や脇坂安治らの裏切りも、毛利秀元らが動かないことも信じようとはせず、氷雨の降る中、関ヶ原へと向かったのでした。
ここに至り、義弘は決意を固めます。
西軍には加担しない。島津らしい戦いで、天下に� ��勇を示す。
それが薩摩の生き残る道であることを信じ、彼は行動を以って示したのです。
午前8時から始まった天下分け目の戦いは、正午までの4時間、西軍の圧倒的な優勢で進みました。本陣の右翼に陣取った薩摩の陣には、三成から出陣を促す使いが何度も訪れ、遂には三成本人がやって来ますが、義弘は頑として受け付けません。自分の狭い知識に溺れ、勝利の機会を悉く投げ捨てた三成を、義弘は最早信じてはいませんでした。
島津勢は、陣を出ることなく、沈黙を守り続けます。東軍が攻撃をかければ猛反撃を加え、西軍の兵が逃げ込んで来れば追い散らし、頑なに戦場の只中で立ち続ける島津兵。家康は、それに不気味なものを感じ、配下の諸将に厳命を下します。
「島津を攻撃してはならぬ」
� �そうして島津軍は、攻めず、侵す者のみを退けて、最後の時を迎えたのです。
正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りに始まった内応の連鎖は、わずか1時間で西軍を総崩れに追い込みます。午後2時過ぎには、西軍は完全に壊乱し、勝敗は決しました。東軍の圧勝です。
その中で、ただ島津軍だけが、なおも整然と佇んでいます。その数、およそ6百。
一体彼らは、どうするつもりなのか。降伏か、退却か。10分、20分。東軍の諸将は、固唾を呑んで、その去就を見守ります。そして、30分。義弘の号令一下、島津軍は怒涛のように動き出しました。
「我らが国許へ引き揚げるのは、敵に背を向けて逃げるのでは無い。逃げては、この敵の中、生きて通れる訳は無い。我らはこの引き揚げで、世に比類無き薩摩の� �勇を示す。その働きで薩摩が救われる。その方ら、みごとに薩摩男子の生きよう死に様を、天下に示してくれい」
義弘の、最後の訓示でした。
ここに、今も歴史に残る、壮絶な退却戦が始まったのでした。
迎え撃つ、3万の東軍。家康の本陣は、その一番奥まった所にありました。
その本陣を目がけて、鋒矢(ほうし)の陣形を取り、6百の島津軍は進軍を開始します。正確な射撃と同時に、突撃する騎兵と槍兵。すさまじい彼らの攻撃に、福島正之、井伊直政、本多忠勝らの軍勢は、たちまち総崩れとなり、四散します。
精強無比の本軍を撃破されて、顔色を失う徳川家康。大軍の中を突き進んで来る島津兵たちの顔は、彼には魔神の如く見えたことでしょう。彼が、生涯に死を覚悟した時が3度あると言われます。1度目は、武田信玄に三方が原で大敗を喫した時。3度目は、この後の大阪夏の陣で真田幸村に追い詰められた時。そして2度目が、まさにこの時でした。
3� ��の東軍を突破して、家康の前に現われた島津軍。その距離は、わずか一丁(120メートル)ほどであったといいます。恐怖に顔を引きつらせ、家康は床机から突っ立ったまま、固まったように目を見開いていました。
もしこの時、義弘が兵士たちに命ずれば、家康の命は無かったでしょう。しかし彼は、そうしませんでした。家康以外に、天下を統一できる人物はいなかったからです。戦国時代を戦い抜き、九州制覇、秀吉の島津征伐、文禄の役、慶長の役と、40年以上にわたって戦い続けてきた彼は、平和の尊さを、誰よりも良く知っていました。
義弘は、甥の豊久の問いに答えて言います。
「内府がおり申(も)んど。やり申すか。今なら首が獲れ申す」
「やらん、生かしておけ」
かくして島津軍は� ��家康の眼前で転回し、一路牧田街道烏頭坂へと向かったのでした。
『あの者を生きたまま帰せば、島津は取れん』
気を取り直した家康は、追撃を命じます。藤堂勢が、京極勢が、さらに家康の旗本である本多忠勝と井伊直政が攻撃をかける中、島津軍は決死の退却に移ります。藤堂勢と京極勢を蹴散らし、『ステガマリ』と言われる決死隊を退路に配置しての、強行突破です。関ヶ原から甲賀を経て、信楽、摂津住吉へ。用意された船に乗って、大阪から無事に船出した時、6百名の兵士は、わずか80名に減っていたといいます。甥の豊久も、忠実な老臣である長寿院盛淳も、この戦いで壮絶な最期を遂げました。しかし彼らは、身を挺して、義弘を守り通したのです。
この凄まじい退却戦は、家康の心に畏怖を植えつけました。
「島津、恐るべし」
わずか6百の軍勢で精強を誇った東軍3万を打ち破る、その卓越した戦闘力と、あくなき闘争心。しかも薩摩には、島津本軍3万が、そっくり温存されているのです。
もし、義弘が徹底抗戦したら。
その恐れが、家康の島津に対する戦後処理を、腰砕けにさせました。西軍に加わって戦った大名は、悉(ことごと)く取り潰しや減封の憂き目に遭ったにも関わらず、ひとり島津家のみは、全く領地を失わなかったのです。これは、異例中の異例でした。
島津義弘が求めたものは、降伏条件の駆け引きではなく、対等の和睦交渉でした。そして家康は、この条件を呑みます。薩摩・大 隈は勿論、豊久の旧領であった日向佐土原2万8千6百石までが、島津家に還付されたのです。まさに、政治家としての義弘の面目躍如といったところでしょうか。
こうして、勢力を削がれることなく、薩摩島津は残りました。領民の命と暮らしは守られ、幕府や他の大名による統治下で過酷な年貢を課されることなく、人々は平和に暮らしました。
「さても、関ヶ原合戦と申すは・・・」
生き残った兵士たちは、郷土の青年たちに戦のことを語り、薩摩隼人の誇りを伝えていきます。激戦の中に斃れていった同胞たちのことを思う時、ともすれば兵士の声は途切れ、涙はあふれ出て止まりません。青年たちは、その感動と誇りを胸に成長し、義弘の信念を受け継いでいきます。
そして260年後。その子孫たちは� �錦の御旗を掲げて徳川軍を打ち破り、遂に新しい世の中をもたらすことになるのです。
壮絶な戦闘シーンの描写は、息を呑む迫力に満ちています。一途に主君・義弘を慕い、主君と郷土のために命を投げ打って奮闘する兵士たちの姿は、強い感動で読者の心を揺さぶります。
信義と信念。
人として生きるために大切なものを、この本は教えてくれます。戦国時代の終わりを颯爽と駆け抜けた、島津義弘。読者は、彼の生き方に、きっと多くのものを学ぶことでしょう。
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