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人生の意義 - Wikipedia
人生の意義(じんせいのいぎ、人生の意味とも、英:Meaning of life)とは、人生において目的や意味とはあるのか、あるとすればそれはいかなるものなのかという問いである。自然な日本語では「人生の意義」などとは表現せず、むしろ「生きがい」という表現のほうが定着している[1]。
この問いは、経済的に豊かな国でほど切実な問題となってくる傾向がある。経済的・物質的に豊かな国の人々ほど、ひどい「空虚感」や「心のむなしさ」にさいなまれている人の数が増える傾向がある。アブラハム・マズローは人間は基本的欲求のすべてを満たして、ようやく「自己実現の欲求」といった高次欲求にかられ始める、と言っているが、「豊かな社会」は基本的欲求を満たしやすい社会なので、高次の欲求が発現しやすく、それが満たされない苦しみにさいなまれやすいという面がある、と諸富は言う[2]。
人生において、このような命題が人の心を捉える時期は3つある、とも言われる。思春期、中年期および老年期である。思春期を経た者の多くは、その段階なりの解答を持つ。中年期にもこのような問いが心を捉えることがある。これは「中年期の危機(en:Mid-life crisis)」などとも呼ばれる。深層心理学者のユングがこのような中年期の危機の問題に早くから関心を抱いた。 傍から見ると特に何の問題もない人で、むしろ財産・地位・家族などについては恵まれた状態の人に、このような問いで悩む人が多くいる。若いころに、「財産・地位・家族などを手に入れれば幸福になれるに違いない」と思い込み、ひたすら頑張ってきたのに、いざそれらを手に入れてみると、まったく幸福という実感が無く、自分の人生に「大切な何か」が欠けている、という気がして仕方なくなり、「人生のむなしさ」を痛感する人が多いのである。 この段階で、あらためて「残された人生で、私は何をすることを求められているのだろう?」「自分の人生を意味あるものにするためには、今後どう生きてゆけばいいのだろう?」という問いに真正面から向き合うことになるのであり、そして老年期にも、このような問いが心をとらえることがある、と諸富は述べる[3]。 神谷美恵子は以下のことを指摘する。 「自分の存在は何かのため、またはだれかのために必要であるか」という問いに肯定的に答えられれば、それだけでも充分生きがいをみとめる、という人は多い。老年期の悲哀の大きな部分はこの問いに充分確信をもって答えられなくなることにあろう。よって老人に生きがい感を与えるには、老人にできる何らかの役割を分担してもらうほうがよい。また、愛情の関係としても老人の存在がこちらにとって必要なのだ、と感じてもらうことが大切である[4]。
この問いは、そもそも自身の価値観の決定あるいは態度決定に関する問いであるので、学問や科学は、この問いに対する解答を与えてくれはしないとマックス・ウェーバーはしている[5]。
この問いに対する回答は宗教や哲学の中に見出すことができる。あるいはそれらを表現した文学や音楽などの芸術作品の内にも見出すことができる。
[編集] 哲学における諸見解
[編集] 功利主義
功利主義の起源はエピクロスまで遡れるものの、学派としてのこの思想の創始者はジェレミー・ベンサムであるとされており[6]、彼は快と不快という二つの支配者の下にあることが人間の自然であると主張し、そして道徳的洞察から功利性の支配(Rule of Utility)という説を展開し、「善は何であれ最大多数の最大幸福である[要出典]」とした。彼は生きる意味を「最大幸福の原理」[要出典]として定義した。なお、ジェレミー・ベンサムの第一の支持者は彼の時代の著名な哲学者であるジョン・ステュアート・ミルの父であるジェイムズ・ミルである。ジョン・ステュアート・ミルは父の仕事の多くからの転写と要約を含むベンサムの原理によって教育された[7]。
[編集] プラグマティズム
プラグマティズムは19世紀後半のアメリカで形成され、それ自体で(ほとんど)真理に関係して与件を供する環境との奮闘だけを仮定し、そして意味を持つ理論を派生させ、そしてその結果、功利と実用性もまた真理の要素でもあるとしている。さらに、プラグマティズムは役に立ち実用的なものだからといって何であれ常に真理であるというわけではないと主張しており、人間の善に最も貢献するものが長らく真である、としている。「実践において、理論的主張は実践的に検証可能であるべきであり、即ちあるものは予測およびテストが可能な主張であるべきであり、そしてつまるところ、人類の要求が人間の知的探求を指導すべき」と主張した。
プラグマティズムの哲学者は、実践的で有用な人生の理解は人生についての非実用的で抽象的な真理より重要である、と主張する。
[編集] ニヒリズム
ニヒリズムは知識と真理の主張のあらゆる権威を否定し、価値は実在しないとし、それにおいては価値は主観的であるというよりも、むしろ無根拠である、とする思想である。そこにおいては、道徳は無価値で、社会の間違った理想としてしか見られていない。フリードリヒ・ニーチェはニヒリズムを世界、とりわけ人間の意味、存在、目的、可知的真理そして本質的価値を空にすることだと特徴付けた。簡潔には、ニヒリズムは「最も高い価値の無価値化」の過程である[8]。ゆえにニヒリズムでは「人生の意義」なるものは存在しない、となる。また、マルティン・ハイデガーは、ニヒリズムは「存在」が忘れ去られ、価値へと変容する活動であり、換言すれば、価値を交換する存在の減少であるとしている[9]。
フランスの作家アルベール・カミュは人間の状態の不条理とは人々が外的世界に存在しない価値と意味を探すことであると主張している。カミュは『異邦人』の主人公であるムルソーとして価値のニヒリストを書いているが、[10]しかしまたニヒリスティックな世界における価値について、人々はむしろ「英雄的ニヒリスト」になる努力をすべきで、不条理との対面において尊厳を持って生きながら、「世俗の聖人」、友愛のある団結でもって生き、そして超越的な世界の無関心に反抗するべきであるとする[11]。
嫉妬を殺すためにどのように[編集] 実存主義
実存主義においては、それぞれの男と女は彼と彼女の人生の本質(意味)を創造する、とされる。そして、人生は超自然的な神ないし地上の権威によって決定されておらず、我々は自由である。かくして、我々の倫理的で主要な行いは自由、そして自己決定である。このように、実存主義は理性を重要視する合理論や科学的な見方をする実証主義に反対する。人生の意味を知ることに関して、実存主義者は理性のみを用いるのは不十分であるとする。この不十分は不安と恐怖の感情を起こし、自由への直面と同時に起こる死の自覚を我々に感じさせる。実存主義者にとっては、(サルトルが言ったように)実存は本質に先立ち、一人の者の人生の本質は一人の者が存在するようになる前のみに生じている。
セーレン・キルケゴールは「信頼の跳躍」という言葉を作り、人生は不条理で満たされており、我々は無関心な世界において自身の価値を作るべきだとした。我々は有限なものへの無条件の係わり合いにおいて有意味に(絶望と不安から解放されて)生きるのであり、そうするには本来的な傷つきやすさにもかかわらず、係わり合いに有意味な人生に費やすことを主張した[12]。
「人生の意味とは何か?」という問いにおいて我々の生は我々自身の意志を反映しているのであり、意志、生には目的がなく、非合理的で、苦痛を伴う運動であるように決定されているとアルトゥール・ショーペンハウアーは答えた。彼によれば、救い、救済、そして痛みからの逃避を成し遂げるのは美的瞑想、他者からの共感、そして禁欲主義である[13][14]。
ニーチェにおいては、生は、我々を生きるよう促す目的が存在することのみによって、価値ある生となる。したがって、彼はニヒリズム(「起こること全てに意味がない」)を目的の欠如だという。彼はそれは我々の世界における生を否定し、価値は客観的事実で、合理的に必要であり、普遍的に関わり合いを結びつけるということを否定するものとして、悲観主義を信頼できないものとする。我々の評価は解釈であり、世界に対する反省ではなく、したがって、全ての観念化はそれ自体においては個別のパースペクティブからのものである[15]。
[編集] 論理実証主義
論理実証主義者は「人生の意味とは何か?」そして「問うことに意味はあるのか?」と問いかけたことがある[16][17]。 もし客観的な価値が存在しないとすれば、人生は無意味なのだろうか?[18]これに対してルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインと論理実証主義者たちは「言語によって表現されるならば、その問いは無意味である」と言う。というのも人生において「xの意味」という言明は、通常xの結果か、xの意味(significance)か、あるいはxにおける顕著なもの等々を示すのであり、したがって、人生の意味の概念が「x」と等しい時、「xの意味」という言明において、その言明は再帰的であり、したがって無意味であるか、もしくはそのことは、生物学的生は人生において意味を持つことが本質的であるという事実を示しているかである、とする。
人生におけるあるもの(人、出来事)は全体の中の部分として意味(significance)を持つことができるが、生における分離し独立した意味それ自身はそれらのものから遊離しており、認識されえない[要出典]、とする。ある人の人生は(彼自身、他人のために)彼の行い、遺産、家族等々から結果する人生の出来事として意味を持つが、意味(significance)あるいは結果の何かしらの印は人生との関係があり、「人生それ自体に意味がある」という言明は言葉上の誤用となるために、人生はそれ自身で意味を持つというのは言語の誤用である[要出典]、とする。バートランド・ラッセルは、彼は拷問への嫌悪はブロッコリーへの嫌悪に似てはいないことを認めているにもかかわらず、彼はこれを証明する経験的方法には達していない、と書いた[19]。
[編集] 宗教における諸見解
世界の神話の中(歴史)に個々の問題を解決できるヒントがあると言われている[20][21]。
[編集] キリスト教における見解
心にむなしさを感じるとき、キリスト教の教会は、そこでの交流を通して、また人文科学的に聖書の中の人物や知恵を知りつつ、イエス・キリストを模範とし、本当の人生のあり方に気づきそれを実践し体験することで、成熟した人生を得ることができる場である、とされる。
以下『聖書』より
・『マタイによる福音書』22章37-39節「そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めである。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じように大切だとされる。
・『マタイによる福音書』11章28-29「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。」
・『ピリピ人への手紙』4章8節「さて、皆さん、筆をおく前に、もう一つ申し上げたいことがあります。 真実なこと、良いこと、正しいことに注目しなさい。 きよいこと、愛すべきことについて思いめぐらし、他人の長所に目をとめなさい。」
・『マルコによる福音書』10章40-45「だれをわたしの次の位につかせるかは、わたしが決めることではありません。 もうすでに、決まっているのです」とおっしゃいました。この、ヤコブとヨハネの願い事を知ったほかの弟子たちは、もうれつに腹を立てました。 それでイエスは、皆を呼び集められ、こう言われました。 「あなたがたも知っているとおり、この世の王や高官は、支配者として権力をほしいままにしています。 しかし、あなたがたの間では違います。 偉くなりたければ、皆に仕える者となりなさい。 人を支配したければ、奴隷のように仕える者となりなさい。」
・『コリント人への手紙』第1 13: 4-7 「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。 礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、 不正を喜ばずに真理を喜びます。 すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。」
j.a.は誰ですか?・『ローマ人への手紙』7章19-21 「私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。 もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。 そういうわけで、私は、善をしたいと願っているのですが、その私に悪が宿っているという原理を見いだすのです。」
・『ヨハネの手紙第一』 「愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」
『末日聖徒イエス・キリスト教会』
人生の目的は何だろうか
人生には,毎日がただ過ぎていくことよりも何かもっと大きな意味があるはずだと考えたことはありませんか。 そのとおり,ずっと大きな目的があります。あなたの人生には,神聖な目的があります。
天の父なる神は,あなたが幸福になるために驚くべき計画を備えてくださいました。神があなたのために計画を備えられたことを知れば,自分がこの地上に存在する理由が理解しやすくなるでしょう。神はすべての子供たちに,成長し,ご自分のようになってほしいと願っておられます。地上で与えられた時間は,あなたが成長し,進歩するために与えられた機会です。地上に来ることによって次のようなことが可能になりました。
肉体を得る。 選択の自由を行使し,善と悪の中から選ぶ。 経験を増し加え,さらに天の御父のようになる。 天の御父の計画に従うことにより,いつの日かあなたも神のすべての子供たちも,愛する人々とともに神のみもとに帰って一緒に住むことができます。この世でさらに大きな平安を得て,後の世で永遠の喜びを手にすることができます 」
(出典 聖書本文は新改訳聖書第三版(c新日本聖書刊行会)とリビングバイブル(いのちのことば社発行))[22][23][24]
「キリスト教会」、「キリスト教」、および「救済」も参照
[編集] 文学における諸見解
[編集] ゲーテの見解
ゲーテは大作『ファウスト』において人生の意味をテーマとして扱っている。そこでは、今ある空虚を満たそうと欲望をどれほど追い求めてもその空虚は埋まらない、それどころか、欲望の充足を追求すればするほど、かえってその空虚が際立ってくる、ということを示している。金が欲しい、地位や名誉が欲しい、異性が欲しいなどの欲望は、欲望を満たしたとたんに次の新たな欲望が生じ、どこまでいっても満たされない、という「永遠の欲求不満」の状態に置かれてしまう[25]。
『ファウスト』第一部では、大学者のファウストは学問を究めつくしても人生はただむなしいだけと気づく。そこで悪魔メフィストファレスと交渉し、ファウストを満足させられたら死後の魂を差し出してもかまわない、と約束する。ファウストは悪魔の力で若さを得て、マルガレーテと恋をし身ごもらせるが、その結果母と兄を失うことになった彼女は生まれたばかりの赤ん坊を沼に沈めて殺してしまう。ファウストは「ああ、俺は生まれてこなければよかった」と嘆く。第二部では、懲りないファウストは皇帝の家臣となり、ふたたび悪魔を説き伏せ、黄泉の国からギリシャ神話の伝説の美女、完全な美の体現のヘレナの霊を呼びださせ、結果としてふたたび恋におち、子供をつくり平和な家庭を築き、今度こそ満足のゆく生活を手� ��したかのように見える。だが愛する子オフィリオンは平和な家庭を否定し、戦いを求めて旅立ち死んでしまう[25]。
では、その後ファウストが、「ここにこそ人生の意味がある」と思え、「時よ止まれ!お前は美しい!」と叫ぶことができるようになったのはどのような時かというと、自分の欲望の満足させようという思いは捨て去り、万人のための自由な国を建設しよう、と人々のための「理想の国」実現に向けて戦いはじめた時であった。つまり、『ファウスト』における「人生の意味」「本当の幸福とは何か」「本物の満足とはどのようなことか」というテーマの答えは、自分の欲望の満足へのこだわりは突き抜けて、それを手放し、自己(小我)を超越し、利他の状態に状態に至ったときにはじめて手に入るものだ、ということである[25]。
なお、ファウストの心の旅があらゆる学問への絶望から始まるように、人生の意味や真の幸福というのは、学問や思索によって得られるものではないのであり、「人生の意味は○○である」とか「真の幸福とは○○」であるということを書物や文章を読んで学んだところで、それで人生の意味や幸福が得られるわけではなく、実際に「自分の命を懸命に燃やす」ことによってのみ人生の意味や真の幸福はつかむことができる、と表現されているのである[25]。
[編集] 五木寛之の見解
五木寛之は著書『人生の目的』の「あとがきにかえて」でその見解を示している[26]。
人生の目的は、『自分の人生の目的』をさがすことである。自分ひとりの目的、世界中の誰ともちがう自分だけの『生きる意味』を見出すことである。変な言い方だが、『自分の人生の目的を見つけるのが、人生の目的である』といってもいい。私はそう思う。
そのためには、いき続けなくてはならない。いき続けていてこそ、目的も明らかになるのである。『われあり ゆえにわれ求む』というのが私の立場だ。(...)
自分だけの人生の目的をつくりだす。それは、ひとつの物語をつくるということだ。自分で物語をつくり、それを信じて生きる。
しかし、これはなかなかむずかしいことである。そこで自分でつくった物語ではなく、共感できる人々がつくった物語を『信じる』という道もある。
<悟り>という物語。<来世>という物語、<浄土>という物語。<再生>という物語。<輪廻>という物語。それぞれ偉大な物語だ。人が全身で信じた物語は、真実となる。— 五木寛之『人生の目的』[26]
人生の目的を得るとは、何らかの「人生の物語」を持つ、ということであり、そのためには、物語を自分で作るという方法と、偉大な物語を信じる(=信仰を持つ)という方法がある、ということが示されているのである[26]。
[編集] 精神科医の諸見解
[編集] ヴィクトール・フランクルの見解
ヴィクトール・フランクルは以下のように述べた。
私は私の人生私は何ができるのを嫌う「人間が人生の意味は何かと問う前に、人生のほうが人間に対し問いを発してきている。だから人間は、本当は、生きる意味を問い求める必要などないのである。人間は、人生から問われている存在である。人間は、生きる意味を求めて問いを発するのではなく、人生からの問いに答えなくてはならない。そしてその答えは、それぞれの人生からの具体的な問いかけに対する具体的な答えでなくてはならない」
— ヴィクトール・フランクル 『死と愛』 みすず書房、1961年。(原題『医師による魂の癒し』)
多くの人は人生を「自分がしたいことをしてゆく場」と捉えてしまっている[要出典]。このような「私のやりたいことをするのが人生だ」という人生観(欲望中心の価値観)に対し、フランクルは「私がなすべきこと、使命を実現してゆくのが人生だ」と述べているのである。
欲望中心の価値観では、例えば病気や人間関係等のトラブルはただの邪魔なものとしか眼に映らないが、「意味と使命中心の生き方」「なすべきことをなす生き方」では、それらのトラブルは何らかの意味がある、と受け止められるようになる。「これらの出来事を通して、人生が私に何かを問いかけてきている」「私に何を学ばせようとしているのだろう?」と受け止めることができるようになる、といったことをヴィクトール・フランクルは言っている。
そして「人生が自分に求めていること」を見つけるための手がかりとして、"三つの価値"を提示する。「創造価値」「体験価値」「態度価値」である。
- 創造価値
- 自分の仕事を通して実現される価値。これは大それたものである必要はなく、例えば、調理、コピーとり、清掃などでも。これによって助かる人、快適になる人がいる何かを提供している、ということ。
- 体験価値
- 人や自然と触れ合う体験によって何かを受け取ることができ、また何かが実現できる価値のこと。
- 態度価値
- 自分に与えられた運命に対してどういう態度をとるか。それによって実現されてゆく価値のこと。人生には、生まれつき決まってしまっている一種の「宿命」のようなものもあり、「運命」とも言えるものもあり、また生きている最中にはさまざまなことが起きる。このような「与えられたもの」に対してどういう態度をとりながら生きるかによって、その人の人生の真価がわかる、とフランクルは述べる。そして、この態度価値だけは、(前述の二つの価値とは異なり)人がいかなる苦境に追い込まれ、さまざまな能力や可能性が奪われても、実現の可能性がたたれることはない、と述べる。つまり、この価値をもってすれば、人は息を引き取るその瞬間まで、人生から意味が無くなることは無く、「人生の意味」は絶えず送り届けら れ、発見され、実現されるのを待っている、ということになるのである[27]。
[編集] 神谷美恵子の見解
日本語で「生きがい」と言うと、対象を指す場合と、感情を指す場合がある。生きがいを感じさせる対象を「生きがい」と呼び、それを感じる人の感覚・感情を「生きがい感」と呼び分けることもできる、と神谷美恵子の著書『生きがいについて』で述べている。人は長い一生の間にはふと立ち止まって自分の生きがいは何であろうか、と考えてみたりすることがあり、このようなときは、大まかにいって次のような問いが発せられるわけだろう、と神谷は述べる。
- 自分の生存は何かのため、またはだれかのために必要であるか。
- 自分固有の生きて行く目標は何か。あるとすれば、それに忠実に生きているか[28]。
人間が最も生きがいを感じるのは、自分がしたいと思うことと義務とが一致したときだと思われ、それは上記の問いの第一と第二が一致した場合であろう、と述べる。だが、これらは必ずしも一致しない。生活のための職業とは別に、ほんとうにやりたい仕事を持っている人も多い。それらの両立が困難になると、うっかりすると神経症になる人もあり、中には反応性うつ病や自殺にいたる人さえいる[29]。
「生きがい感」を一番感じている人種というのは、使命感に生きている人(自己の生存目標をはっきりと自覚し、自分の生きている必要を確信し、その目標にむかって全力で歩いている人)、ではないか、と述べる[30]。このような使命感の持ち主は、立派な肩書や地位を持って目立っているというわけではなく、むしろ人目につかないところに多くひそんでいて、例えば小、中学校の先生、特殊教育に従事する人、僻地の看護士など、いたるところにいる、と述べる。
社会的にどんなに「立派」とされることをやっている人でも、自己に対してあわせる顔のない人は次第に自己と対面することを避けるようになる。心の日記もつけられなくなる。ひとりで静かにしていることも耐えられなくなり、自分の心の深いところからの声に耳をかすのも苦しくなる。すると、生活を忙しくして、この自分の心の深いところからの声が聞こえぬふりをするようになる。この、「自己に対するごまかし」こそが、生きがい感を何よりも損うものである、と指摘する[31]。
使命感に生きる人にとっては、たとえ使命半ばで倒れたとしても、事の本質は少しもちがわない。自己に忠実な方向に歩いているかどうかが問題なのであって、その目標さえが、正しいと信じるところに置かれているならば、使命の途上のどこで死んでも本望であろう、と述べる。これに対して、使命にもとっていた人(使命に背いていた人)は、安らかに死ぬことすらできない[32]。
[編集] 生存目標の喪失と喪失した人の心の世界
神谷は、難病にかかったり、恋人を失ったり、子供を失ったり、職を失うなどして生存目標を失うと、人は「前途が真っ暗な世界に閉ざされた」「世の中が真っ暗になった」「深い谷底につき落とされた」などといった感覚を味わうとしており[33]、カール・ヤスパースやクーレンカンプ(Kulenkampff, C)が「足場」とか「立場」などと表現しているのは、決して抽象概念などではなく、人間の根源的な感覚に根ざした表現である[34][35][36]。 それまで生存目標としていたものが失われると、人はもはや何のために生きてゆくのか、何が大切なのか、判断の基準すら分からなくなる。つまり価値観が崩壊し、これは概念レベルにとどまらず、もっと根本的な生体験(感情や欲求や知覚)にも影響を及ぼす[37][38]。
[編集] 新しい生存目標
新しい生存目標の発見は、自分自身の本質的なものの線に沿ったものではなくてはならない、と神谷は言う[39]。自分自身の本質に沿ったもので、これ以外に自分の生きる道はないのだ、とわかったら思い切ってそれを選びとるほかはない、この決断と選択と賭けの前にしり込みしたときには、いわゆる実存的欲求不満の種をまくことになり、後日に神経症や「にせの生き方」や自殺をひきおこす、と述べる[40]。
新しい生存目標は、かつてのものと比較して類似のものに変形したり、すっかり置き換えられたりする。人間への愛が生きがいという状態から、神への愛こそが生きがい、と変わる場合もある。神秘家などにこの例は多く、失恋を契機として修道院での人生を選ぶ人などもこの例にあたる[41]。生きがいの置き換えのことを、リボーは「情熱の置き換え」と呼んだ。例えばゴーギャンにおいては、株の仲買人で生きていたが、35歳の時その職を捨て、絵画に走り、現世的な幸福はすべて捨てさってしまった、という[42]。
結局、自分の内にさまざまの可能性を持っている人は、ひとつの生きがいを失っても、ほかの生存目標をみいだし、強く生きてゆけるのではないか、と言い、内在的傾向の複雑なひとほど生きがいの置き換え現象が起きやすいのだろう、とする[43]。また、ある事例を挙げて、全てのできごとを「天の摂理」として受け入れる素朴な宗教心をもっている人だと、新しい境遇に置かれればまたそこで新たな生きがいを見出すものだ、とも述べる[44]。
[編集] 生きがいと宗教
"宗教というものは現世において満たされない欲求を埋め合わすもので、代償と自己防衛の役割を果たしているものに過ぎない"、などと考えてしまう人が多くいるが、もし仮にそのようなものだとしたら、現実の苦悩の原因がとりのぞかれれば宗教は必要でなくなってしまうということになるが、実際はそうではない、と神谷は言う[45]。
ゴードン・オールポートの著書に明快に書かれているように、宗教とは、人格に統一的な原理を与えるものであり、宗教とは、自我の成長の各段階において存在全体を意味づける前進的意図を用意するものである。宗教が積極的な生きがいを人に与えうるとしたら、まさにこのような意味での宗教でなくてはならない、と神谷は述べる。このような宗教は、単なる思想や理想の意味をこえて、人間の心の世界を内部から作りかえ、価値基準を変革し、もののみかたのみならず、見えかたまで変え、世界に対する意味づけまで変える、とする[46]。また、多くの思想家や心理学者の言うように、宗教の果たしうるもっとも本質的な役割は、人格に新しい統合を与え、意味感、すなわち生きがい感を与えることであろう、とも述べる[47]。
[編集] 参考文献
- ^ 百科事典や国語辞典などでも「人生の意義」などの項目は存在しない。「生きがい」ならば存在する。また書籍のタイトルも「生きがい」という言葉を含めることで、このジャンルのものであることを明示していることが多い。
- ^ 諸富(2004) pp.132-134
- ^ 諸富(2004) pp.137-141
- ^ 神谷(1980) p.34
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- ^ 神谷(1980) p.114
- ^ いわゆる離人体験などもこのようなところから理解される(神谷(1980) p.115)
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- ^ 「意味への意志」への欲求不満からおこってくる神経症は、全神経症の14%を占める、という(フランクル『神経症』)(神谷(1980) p.176)
- ^ 神谷(1980) p.181
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- ^ 神谷(1980) p.231
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