2012年1月17日火曜日

中居ヒサシのヒトビト的エッセイ

on 2011年12月15日

 今しみじみと、わずかにしたり顔をしながら読んでいる本がある。

 『山と渓谷1.2.3復刻撰集』という、ちょっとマニアックで厚めの文庫だ。

 ご存じのように、『山と渓谷』というのは日本の由緒正しい山岳専門誌のことである。山に興味のない人でもその名前くらいは知っているだろう。そんな雑誌であるから、山に興味のあるボクのようなニンゲンにはとても大切な存在でもあった。

 過去形で書いているのは、二十代の中頃から続けてきた購読を、数年前にやめたからだが、その存在の大きさは変わっていない。もちろん立ち読みなどでのチェックは欠かしたこともない。

 以下、愛称の「ヤマケイ」で行こう…

 この文庫本は、ヤマケイの創刊号、つまり第一号から第三号までの掲載内容を、文庫に再編集したものとなっている。

 ヤマケイ創刊は、一九三〇(昭和五)年五月。二号は七月、三号は九月に出ている。

 その時代に出版されたものを複写したのがこの本で、印刷の汚れなどはそのまま。書体も時代を感じさせるものだ。当然それぞれの文体や言い回しなども時代がかった味がある。

 そんなノスタルジックな印象もいいのだが、やはり何と言っても凄いのはその内容だ。

 昭和初期の山での滞在記や紀行。思いを綴ったエッセイ。ようやく誕生し始めた山小屋に関するレポート。さらに山に関する出版物の書評など、まとめて言ってしまうと今とそれほど変わってはいないみたいだが、やはりその内容が実に激しくいいのだ。

 創刊号の冒頭に、発刊の「信条」が書かれている。

 "要は「正しきアルピニズムの認識」を前提として真面目に「人と山との」対象を思索して行かねばならぬと信じます。"と…

 当時の山岳界の在り様や、山を愛する人たちのさまざまなアプローチなどが語られ、昭和初期にしてすでに、これほどまでに登山は人々に親しまれようとしていたのかと驚かされる。

 昭和の初めというと、もうすでに当時の近代登山が隆盛を極めていて、大学山岳部や一般社会人の山岳会の活動は活発だった。

 当時の紀行の中に、たとえば甲州の山へと向かう人たちを乗せた新宿駅発の列車がいっぱいであることが記されていたりもする。

 それ以前の信仰登山と違い、登山は文字どおり登ることそのものに意味を見出すようにもなっていた。

 たとえば、冬季の山ではスキー山行なども行われていた。当時の大学生たちには、それなりの家庭に育った者が多かっただろうし、山に入れることはそれなりにステータスを持っていたことが分かる。

 この本の中にも出てくるが、厳冬期における初登頂を競い合う大学山岳部のそうした活動は、時として互いに登攀技術や安全のための重要事項をオープンにしない動きに流れていったのだろう。

 ヤマケイは、そういうことを広く一般に広めるためという目的をもって発行されたとある。また、さまざまなスタイルで山を楽しむ姿勢を、ニュートラルに受け入れる柔軟さも示している。高価な書を入手できない登山者たちのために、廉価で山の情報を提供するという目的も持っていた。

 ところで、こういう読み物に接していると、いつも不思議な思いに流されていく。

 それは、山という厳しい世界の中での人間の感覚と、使われてきた道具類の進化についてだ。

 たとえば厳冬期の山行における道具類、さらに山小屋の安全性など、この本の中に記されている時代の人たちは、なんと大らかにそれらを享受していたことかと感心させられる。

 そういうものしかなかったのだから仕方ないと言ってしまえばそれまでだが、そうであったが故の強靭さやのどかさにホッとしたりもする。

 黒部渓谷を歩きとおし、その成果を世に紹介したことで有名な冠松次郎が書いた北アルプス蓮華岳付近の山小屋での話などは、完璧に痛快で面白い。

 十月の山小屋で寒さに震えながら眠っているうちに、屋根がめくれたのだろうか、天井から雪が入ってきて、そのうち部屋のあちこちに白い雪が砂糖のように積もっていく…。

 "蒲団の上食卓の上を嫌はずに降り積る、雪を掃くのがまるで粉末でも掃き落すよう溶けないだけ始末がよい。"と、こんな調子だ。

 そして、そういう状況にありながらも、蒲団に入って寝ていられることを彼は喜んでいる。

 今ではそんな山小屋の存在も考えられないが、冠氏はさらにその後も、外に出てその雪の中に大便をするなどした話につなげている。大便が雪の中に沈んでいく時の表現は完璧すぎて、ちょっとここでは書けない……。

 また冬季の上高地・徳沢あたりをベースにして行われる、涸沢や岳沢あたりでの大学山岳部のスキー山行記などを読んでいると、ボクなどは当時の道具類でよくそこまでやれるものだと驚いてしまう。

 最も驚くべきは、単純に寒さに対する強さなのかもしれないと思ったりもする。

 それほど本格的ではないが、自身のわずかな雪山体験からも、温度計の赤い棒が下にめり込んでしまうような寒さの中では、もうかなりニンゲンは消耗してしまうものだと実感できる。

 雪と共に突風が吹き荒れ、身体の体温が一気に下がっていく感覚は今も昔も変わらないだろう。

 あの時代の人たちの使っていた道具類は、今とは比較にならないほど寒さなどに弱かったはずだ。スキーのビンディングにしても安定感は乏しかったろう。ブーツは皮だろうし、それに何と言ってもウエアなどは、今とは全く比較にならないものだったはずだ。ブーツの中の指先が冷たくなっていく感覚など、今の時代ですらも当然感じるものだ。

 そういった当時の状況の中で、山そのものを、そして山にいる時間を愛する人たちの行動や思いが、この雑誌に込められている。

 ただ、そういう厳しい山行の記録ばかりが綴られているのでは当然ない。

 

 富山生まれで、ふるさとの山を愛し、多くの書を残した田部重治氏が綴る「山の想い出」という短い文章からは、のんびりとした山そのものを楽しむ思いが伝わってくる。

 幼い頃から見上げていた立山連峰など、山の存在が氏の生き方そのものを形作っていることを教えてくれる。山を歩くことが至福の時間であることを、氏は素朴に伝えているのだ。

 余談だが、ボクの大好きな太郎平小屋に掲げられている表札の文字は、この田部重治氏の書だ。

 

 まだ、完読していないが、この本に綴られている話を読んでいくと、いつも山のことを考えていた自分を思い出した。

 街を歩いていたり、クルマを運転していたり、どんな場面でも山のちょっとした情景を思い出せるチカラ?が、ボクにはあったように思う。

 森林の中のぬかるみ、縦走中の岩の上、木道のちょっとした滑り具合…。雨降り、強風、雪、そして抜けるような濃い青空。それらがいとも簡単に蘇ってくる。

 足の裏や、手のひらなどに山での感覚が再生される。さらには行ったこともない山のことも想像できた。

 山小屋のテラスやベンチで、ただボーっと眺めた景色は、どんな季節でも、ひたすら美しく浮かんできた。

 そして、もともとが歴史好きのニンゲンだったせいもあり、山の世界でもその歴史的な匂いをいつも嗅ぎまわっていたように思う。

 山は近代登山によって開かれたのではなく、先にも書いたが、信仰や、林業、イワナの採取など、その目的はいくつかあり、近代以前から開かれた山は数多くあった。

 何度か書いているが、もともとボクが山を登るきっかけとなったのは、社会人になった一年目の梅雨真っ盛りの頃に連れて行かれた剣岳山行である。

 土砂降りの中、川のようになった早月尾根の道を登って当時の伝蔵小屋(現早月小屋)に入り、翌朝も悪天の中、剣の岩場で情けない思いをしながら、何とか登頂を果たした。

 その時に残ったもののひとつが体力に対する自信だった。

 その後、北アルプスに頻繁に出掛けるようになり、体力任せのコースタイム破り山行に楽しみ?がシフトしていく。ただそれだけなのに、山でやれる自信は相当に深まった。

 しかし、その頃本当に山を好きになっていたのかどうかは、今でも分からない。いつも登りながら、辛い、苦しい、なんでこんなことやってるんだろ?と、そんなことばかり考えていたような気がする。

 山の本当の楽しさを知ったのは、薬師岳・奥黒部方面に出掛け、太郎平小屋のマスター・五十嶋博文さんと出会えたことによる。

 山をゆっくり登る。山でゆったり過ごす。適度に酒を飲む。ボーっとできる自分だけの場所があれば、頂上などどうでもよくなった。

 

 『山と渓谷』を購読し始めたのは、その方面への関心が高まった二十代の中頃だった。

 音楽をはじめとして、スポーツや文芸、歴史・自然紀行まで含め、これまでいろいろな雑誌を購読してきた。立ち読み型のものまで入れると、その数はかなりになると思う。

 その中でこの雑誌は、ロングラン購読のひとつだった。

 そして、ボクにとってヤマケイは、自分の文章で直接原稿料というものをいただいた最初の出版物でもある。2ページほどの紀行エッセイを三度掲載させてもらっている。

 そんな意味でも、ボクにとってやはり大切な存在なのである。

 

 ところで、この本の栞として使っているカードは、少し前に知り合った元ヤマケイスタッフだという某氏からいただいたものだ。

 上高地のインバウンド情報が詰め込まれたカードだ。外国人向けの多言語情報が入っている。

 ますます、山の世界にも新しい仕組みが導入されている現実を、この古い本を読みながら実感しているのだ……

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