ON THE ROAD 青山繁晴の道すがらエッセイ
▼土曜日の今日1月14日も、いつものように出張で品川駅にいます。
新幹線の発車まで、珍しくほんのすこしだけ時間があったので、駅内の三省堂書店を2箇所、見てみました。
やはり、影も形もありません。
「ぼくらの祖国」は、書の奥付にある正式な発刊日が2011年12月30日です。すなわち、まだ2週間強しか経っていません。
そのあいだに初版1万5千部では、まったく足りなくなりました。おのれの書だから言うのではなく、この出版不況のなかでは客観的にみて間違いなくロケット・スタートです。
しかし都心ど真ん中の、そして来客数の多い大きな駅の書店で、最初から影も形もない、配本されないというのは、どう複眼的に見ようとも異常です。
アマゾン・ランキングで同じような位置にあった他の書は、ぼくが見たすべての書店で、常にたくさん並んでいます。
そのアマゾンも「在庫切れ」になり、しかも「入荷時期は未定です」と表示されたままです。重版となっているのに不思議ですね。
これが現在の出版界のひとつの現実であることが、おかげで、よく分かりました。
「ひとつの現実」です。すなわち、「祖国」などという言葉を使わない本は、版元が小さくても、たくさん並べられています。だから「ぼくらの祖国」がぶつかっている異様な壁は、出版界の、ある断面です。
ぼくは出版界(の一部?)に、思い込み、誤解があると思います。
芸能本とか、あるいは経済的な話題に絞った本とか、そういう本しか日本国民は買わない、という思い込みです。
推測ではありませぬ。
実は、複数の編集者に、上述のような状況について彼らの現場からの意見をしっかり聴いた結果です。(版元の編集者ではありません。客観的な立場の人たちです)
▼日本国民を、不当にも愚民扱いにして、「本」の将来はあるでしょうか。
そもそも、そうした書にしか国民の関心が無いというのなら、なぜロケットスタートになったのでしょうか。
それは誰でも思うことですが、出版界には、「その分だけしか読者はいないのじゃないか。後はパタリと買う人がいなくなるのじゃないか」という、これも思い込みがあるのです。
もちろん、このことも、推測ではなくヒヤリングの結果です。
つまり、祖国のことを考えて本を買ったりするひとは、ごくごく一部の国民に過ぎなくて、そうした超少数派がたまたま初版を買っただけであって、大多数の国民は、そんなことには無関心だという考えが、背景にあるのです。
単に、1冊の本の扱いがどうこう、という問題ではなさそうです。
ここまで分かって、ぼくは初めて胸のうちで、憤激しています。
日本国民を勝手に貶めるな。
みんながどれくらい、祖国を憂えているか。その志を知らないのか、信じないのか。
▼こうした社会だからこそ、「あの書店には置いてあったよ」と、みんなが書き込みを寄せてくれていることが、どれほど尊いか。
かんしゃしても、感謝しても、しきれないぐらいです。
この後も「あった!」という情報は、ふたつ前の書き込みにお願いします。こうした、ちいさな抵抗をみんなで共有することが世直しには欠かせないと考えるからです。
※さて、いま新幹線の車内にいます。
乗車すると、ぼくの切符の指定席に、立派な紳士が座っています。
これは良くあることです。ぼくは、ほぼ毎日、新幹線か飛行機に乗っていることもあり、自分の席に他人が座っていることは日常茶飯事です。そもそも人間に勘違いはつきものです。
問題は、その後です。
間違えて座っているひとが、若い人というか、「祖国」という言葉を学校でも家庭でも教えてもらえなかった立場の国民というか、それであれば、ほぼ例外なく「ごめんなさい」とおっしゃり、大急ぎで荷物も動かし、後始末もされます。
ところが、今日のように、社会的地位が何年も何十年も前から、たいへんに高そうな人というか、日本は戦争に負けたんだから「祖国」なんて言葉を学校や家庭で教えちゃいけない、あるいは教える必要がないと考えて、敗戦後の日本をリードなさってきたんだろうなぁと思えるような紳士の場合は、こうならないことが少なくありません。
きょうも見事にそうでした。
「ごめんなさい」は一切、無し、こちらが大量の荷物を抱え、揺れる車内でじっと立って待っていることなどお構いなし、不機嫌そうにゆっくりと、めいっぱい拡げていらっしゃった飲み物や食べ物を動かし…です。
しかし、もちろん我慢します。実害はほぼないからです。すぐに座って原稿を書きたいので、ほんのすこしだけその時間が意味なく失われますが、世の中、自分の仕事の都合にそう合わせてくれません。体力、筋力はあるので、立って待っていたのも問題なし。
困るのは、ふたつです。
ひとつは、こうした方は時として、座席のヘッドレストにポマードの油がべったり付いています。それは、もちろん、自分できれいになさったりはしません。
正直、キモチワルイ。しかし、露骨に拭いたりすると、その人に失礼だと思うから(…と言っても、その人の視界にぼくはもう、ないのだけれど)、目立たないように拭きます。
きょうも、まったくそうなりました。
もうひとつ困るのは、荷物棚の荷物を、面倒くさいのか動かしてくれないことです。
これも見事に、きょうの紳士も同じです。
我慢はしても、不当なことまでは許しませんから、きょうも丁寧に「棚の荷物も動かしていただけませんか」と頼みました。
自分の重い、たくさんの荷物を、自席から遠い棚に上げに行く理由がありませんから。
きょうの立派な紳士の荷物は軽そうで、お手伝いをする必要もなさそうだから、お願いして待っていると、こちらを睨み「動かすからっ」と言い捨てて、ご自分が被害者かのようです。
そして動かしません。
だからもう、さっさとぼくが動かしました。
目を開けて、よく切符を見てから乗ってください…とは、決して申しませぬ。
年齢もあって目が悪い人もいるかも知れませんから。
しかし、ぼくらが生きている敗戦後の日本社会では、若い人でマナーがほんとうに悪い人には、ぼくは滅多に会ったことがない。
一方、敗戦後の日本のあり方を決定づけてきた、築いてきたと思われる人で、もうびっくりするぐらい根本的にマナーの悪い人には、年中、お会いします。
こういう人が、「祖国がどうのこうのなんて、そんな本を身銭を切って買う奴は、変わった少数派に過ぎない」と思い込んでいるビジネス界の、その中枢にいるのではないかと、それをぼくは懸念します。
ぼくらは、戦争に負ける前の日本、ぼくらが学校教育では「軍国主義の日本」、「野蛮な日本」と繰り返し、繰り返し刷り込まれて教えられた、戦前の日本を、知らない。
だから分かりません。
分かりませんが、かつてはこういう人は、社会の成熟した層の中には逆に、あまりいなかったのではないかと考えてしまうのです。
日本が、永い歴史のなかで、たった一度だけ戦争に負けてから、ことし67年目です。
憲法も、国家への見方も、歴史のとらえかたも、教育のありかたも、その67年間に作られた偽物を、打ち破る秋(とき)は来ています。
だから壁が何であれ、「ぼくらの祖国」は書くべき書物だった、書いてよかったと、くだんの紳士が前席でシートを目いっぱい倒している狭いなかで、考えています。
ふひ。
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